今夜は明月。8時、露天風呂から、月を仰いだ。ああ、キレイ、ああ、キレイを繰り返した。
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明月が、人を、うるわしくする。人は、明月によって、うるわしくさせられる。
今夜は明月。8時、露天風呂から、月を仰いだ。ああ、キレイ、ああ、キレイを繰り返した。
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明月が、人を、うるわしくする。人は、明月によって、うるわしくさせられる。
昼間、葛の花が咲いてた。赤紫の。小さな花房が桜の木をよじ登った、梢に、かたまって。見た見た見た、それを。
葛の花は、夏の花。でも、九月になって初めて見た。
日が暮れて行く。山々が影を濃くして行く。6時を過ぎた。僕の足が踏んでいる地球の一ヶ所は、静かに一日を終わる。
僕はクレヨン水彩画をして遊んでた。うまく描けないので、やや不機嫌になっているところ。
も、やあめた!
不機嫌になるくらいなら、遊びとは言えないぞ。
後は、真夜中に回そう。どうせ、寝付けないだろうから。
湯を浴びて来よう。そのあとは、夕食🌃🍴だ。
木は足をつけていない。だが、深い根を生やしている。
人は、足を二本交互に動かして歩くが、根を生やさない。
木は枝を延ばすが、人には枝がない。代わりに腕がある。
人は、一人一人、頭脳を頭に置いて、生命活動全体を監視しているが、木は、そういうことをしない。それでも生きられる。爽やかに生きられる。
人は、口を開いて、お喋りするが、木はお喋りをしない。
木は文句を言うが、木は不満すら表現しない。
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違いがある。違いはあってもいい。
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木が頭脳を内臓していないのは、宇宙頭脳をマザーコンピューターにしているからである。そこに接続していればすむことだからである。
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草も持たない。
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小鳥の頭が小さくてすんでいるのも、同じ理由からである。
だから、重たい頭脳でなくとも、賢くしていられるのである。
ふうん、外の気温は28度あるらしい。九月、山の上の雲仙温泉でこうだ。
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お昼は皿うどんを食べた。生ビールも飲んだ。分不相応に。働いて金儲けもしていないくせに。一人前を気取って。
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昼御飯の前に、硫黄温泉に入った。露天風呂ではない方に。やはり、白濁している。温度が少しだけ低い。
だあれもいない。だあれもいないから、ハーモニカコンサートをしたよ。ひとりコンサート。寂しいから。ハーモニカコンサートをして、慰められるくらいだから、軽症だよ。それも終わり。空が聴いててくれたかもしれない。空も聴いてくれなかったかもしれない。
もう正午。一階の食堂へ行って、腹ごしらえしようかな。腹は空いているのかな?
口寂しいから、葡萄を頬張る。宿に、巨峰葡萄一房200円を持ち込んだ。宿の冷蔵庫で冷やしておいたから、冷たくておいしい。
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宿に着いてから、三日目になるが、その間、綴じ込もっているきりで、玄関より先、外に出ていない。露天風呂まではサイサイ出て行ったのだが。
網戸にしていれば、冷房はいらないから、此処はやはり山の上である。凌ぎやすい。下界は暑いだろう、まだまだ。
フィーヨルドに牧師はいらない。フィーヨルドが神を語るから。
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フィンランドのことわざ、らしい、これは。
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そうか、そうなのか。牧師は神を語る。神を語るフィーヨルドが、ここでは牧師なのだ。
自然界はいつも神を語っている。いつでも、何処にあっても。耳を傾けさえすれば、神の言葉が聞こえて来る。
仏教でも同じことを言っているようだ。
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あとは、各人の耳の聴力次第か。目の視力次第か。
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それで安らぎ落ち着き癒されているのなら、神を聞いたことになるだろう。仏を見たことになるだろう。
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標高1000m級の雲仙岳の連山の上に、白い雲が湧き上がっている。間間に青空の湖が光を跳ねている。僕は、宿の5階の部屋の窓からそれを一人で仰いでいる。
待たれて、待たれて、待たれている人は、どんなにかよかろう。
その逆に、厭われて厭われて厭われている人もある。だから、待たれてはいない。本人にもそれが十分に分かっている。嫌われていることが分かっている。彼の方に罪があるのだから、それをどうすることもできない。彼は旅に出るしかない。漂泊するしかない。
追い出される前に、こちらから出奔するのだ。
そういう立場にある人も多かろう。多かろう。世は苦界である。
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待たれて、待っている間柄はいい。崩れると無惨だ。
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出奔したが最後、なかなか帰れない。あはれ。