N新聞が新春読者文芸大賞を発表していた。僕も詩部門に応募をしていた。が、僕は落選していた。落選で今年をスタートした。がっくりした。期待度は薄かったが、やはり期待をしていたのだ。それが0になった。0の朝となった。
庭に着ている雀さんに目を移して、ここを乗り切ることにした。チュンチュン鳴いて跳ねている楽しそうな雀さんの、楽しさに同じることにした。ずるいか?
N新聞が新春読者文芸大賞を発表していた。僕も詩部門に応募をしていた。が、僕は落選していた。落選で今年をスタートした。がっくりした。期待度は薄かったが、やはり期待をしていたのだ。それが0になった。0の朝となった。
庭に着ている雀さんに目を移して、ここを乗り切ることにした。チュンチュン鳴いて跳ねている楽しそうな雀さんの、楽しさに同じることにした。ずるいか?
美しいおんなの人を美しいと思ってはならない。どうして、ならないか。
こころが掻き乱されてしまうからだ。砂塵が舞い上がる嵐になってしまうからだ。
砂塵の嵐の中にも、まだ美しいおんなの人が立って、こちらに手を上げている。
手を上げているはずはないのに、わがこころの妄想がそれをそうさせている。
昨日、初詣の続きをして八幡宮にお詣りした。振り袖を着たおんなの人に目が行った。目も鼻も口も美しいと思った。短い間だったが美しい時間にいられた。
この世の中には両性がある。そうであるのに、単独の性であろうと努めている。やや強引に。これも不自然な姿ではあるが。
美しいおんなの人がいて、その力を尽くして、この世を限りなく美しい世界にしようとしているというのに、だ。
そろそろ畑のほうれん草の葉っぱの霜が、朝日の光のパワーで消されようとしている。
一晩かかってやっと霜になって凝固してたのに、それが壊されようとしている。あっけなく。脆く。
ほうれん草はほっとしている。葉っぱを伸ばしに掛かっている。パワーは移住をする性質があるようだ。AからBへ、BからCへと移住する。止まらない。
パワーは、何処へ向かっているのだろう? ふっとそんなことまで気になってしまう。わたしのほうれん草の霜も解けかかっているようだ。
ときどき動物本能が来る。こんにちはをする。はっとする。
まだ獣なのかと思う。獲物を欲しがる。身構えている。
嫌なヤツだ、と思う。オスメスになる。オスになったらどうしていけないのか。メスを追い掛けるからだ。オスのスガタをつけて威張るからだ。
オスではなく、オスの獣ではなく、おだやかな人間になっていたい。オスメスに動じない人間になっていたいのに。
獣の嗅覚の鼻が嗅覚を呼び覚ます。嫌なヤツだ。嗅覚の発信源まで近付いて、ぎゅっと抱きしめたいだなんて思っている。慌ててそれを取り消しに掛かる。忙しい。
1と1とで、引き合っていたいなどと思っている。引き合う力を具えた存在でいたいなどと思っている。相手の1を自分の1で受け止めていたいなどとも思っている。
大空にはオスメスがない。大気にはオスメスがない。宇宙にはオスメスがない。引き合っていられずにすんでいる。楽なんだろうなあ。
猫のAちゃんが、外の濡れ縁にいて、日を受けている。お日様の方に顔を向けている。顔と胸と足が光を受けている。じっとしている。いいお正月の三日目を過ごしてしている。まだお正月気分をしている。毛の深くなった耳の内側辺りが、ほくほくほっかりしている。
もう十分なんじゃないのかなあ、とも思う。77年生きて来た。77年分たっぷり十分頂いたんじゃないか。たっぷりの幸福をいただいたんじゃないのかなあ。まだこれ以上を欲しがるのか。これ以上欲しがってはいけないようにも思う。そう思いながら、やっぱりこれ以上を欲しがっている。まだまだ生きて快楽を尽くしたいなどとも思う。これ以上の快楽にも手を染めてみたくもなる。
これ以上、これ以上、これ以上。77年言い続けてきた。爺になってもまだこれ以上に手が延びる。欲張りな爺だ。
年賀状を頂いたのは嬉しいが、返事を書くのが面倒だ。書かないと失礼になる。相手の好意を無にしてしまう。
何枚も何枚も書かねばならない。印刷はイヤだ。心がこもらない。手書きにする。するとやたらと時間がかかってしまう。こうなると、外に出ていけなくなる。畑に出ていけなくなる。
頂いたのは嬉しいのに、差し上げる年賀状は面倒だ。ついつい日延べして遅れてしまう。申し訳がない。
朝ご飯は黄な粉餅だった。蓬餅に黄な粉をまぶしていただいた。正月餅の蓬餅はそろそろ固くなってきている。お椀に湯を加え蓬餅を入れ、電子レンジであたたまる。すると適度にやわらかくなる。箸で捕まえると餅が長く延びる。これを黄な粉といっしょに口の中に入れる。黄な粉にはお砂糖が入っている。丁度いいくらいに甘い。高菜の一夜漬けを刻んだのをおかずにした。おいしかった。
あれもこれもは要らない。だから、要らないものを欲しがらないようにしなければならない。あれも欲しいこれも欲しいの重力圏内から抜けて出なければならない。
しかし、すぐに欲しがってしまう。欲しがると、得られない苦しみが起こる。苦しみに捕まってしまうことになる。うんうんあ唸る。悪心が募って来る。鬼面になる。
あれもこれもは要らない。両手が受け取れる分でいい。両手が受け取れないものまで欲しがることはない。両手が恭しく受け取れる分でいい。その位置について、ゆったりゆっくりしていることができるのだから。
快感の宝庫である。草地は快感の宝庫である。この快感を知っている者がいる。
この快感を知っている者がいる。この爺だ。ここで一日のしばらくの時間を過ごすと、爺は快感そのものになってしまう。
此処で何をしていればそうなるか。右手に農具を握って、丸い小さな椅子に腰を掛けて、ゆっくりのんびり草を抜いているだけである。
偉くなっていなくても、これならできる。偉くなる必要が希薄になって行き、やがて消えてしまう。学問を究めなくとも、これならすぐにできる。学問を究めたところまですぐに行き着いてしまったようになる。無心になる。晴れ晴れとなる。