<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人は日をたくさん持っている

2018年10月19日 11時10分31秒 | Weblog

過ぎし日を遊ばせんとや そを座布に座り賜(たま)ひて茶をお出しする     薬王華蔵

人は日をたくさん持っている。過ぎ去った日も日である。生きている。姿を持っている。像をなして踏み止まっている。それを丁重にもてなすために、座布(ざぶ)を用意してお座り頂く。お茶をお出しする。菓子を口に含んでもらう。わたしとふたり向かい合ってお遊び頂く。

人は日をたくさん所持している。それが人の障害をゆたかにする宝物だということを、しかし、あまり知らないでいる。

70年生きていれば、70x365=25550日。人にそれだけの日が従っていてくれる。

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やわらかき細き愛しき毛の靡く

2018年10月19日 10時51分52秒 | Weblog

やはらかき細き愛(いと)しき毛の靡く項(うなじ)浮世絵賑わわす巴里(ぱり)   薬王華蔵

美人画浮世絵が巴里でもてはやされている。日本画は巴里のアーテイストには重宝される。

女性の美しさ嫋やかさを絵に描いて見せてくれる美人画。江戸初期からこれが発達した。浮世絵師の菱川師宣には絵本「美人絵尽」、版画「吉原の躰」、肉筆画「見返り美人図」がある。

女性のほつれて下がった髪の毛は「後れ毛」とも「後れ髪」とも呼ばれる。「項(うなじ)」は首の後ろの部分を指す。「首筋」とも「襟首」とも言う。ここにか細い、やわらかい毛が生える。

襟首の美しいおんなの人を見たことがある。巴里の人たちもこれを見てぞくぞくっとしたことだろう。若々しく凜々しく生きているおんなの人は、生きているだけで美しい。それを絵にまで描いて昇華させた絵師たち。

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オスがメス呼ぶ 秋の夜の草闇

2018年10月19日 10時42分01秒 | Weblog

リーンリン鈴虫が鳴く 触覚のかぼそく長いオスがメス呼ぶ     薬王華蔵

オスはメスを呼ぶ。虫はそうする。虫は鳴く。リーンリーンと鳴く。深い草むらの奥で。大袈裟でなく、ひっそりと。オスの触角の角(つの)は細い。かぼそい。そして体長ほども長い。これでメスを探し当てる。メスに触れる。草むらの夜の闇に交尾が始まる。

オレはどうだ。オレは草深い里にいるが、リーンリーンとは鳴かない。触角も立てない。メスを呼ぶこともない。メスに触らない。メスを呼ばない触らないオスに、存在価値はあるのか。虫だったら、それはない。オスでもないオレが聞いている虫の声。秋の夜が更けてもう真夜中の2時になっている。

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寂として広がる秋の空

2018年10月19日 10時35分48秒 | Weblog

寂としてひろがる秋をそうさせぬためなり 地上火の曼珠沙華      薬王華蔵

寂(せき)としている天の秋。このままじゃどうにもならぬ。何かないか。何か出来ぬか。曼珠沙華は、彼なりにそんなことを考えたのだ。そして地上を火の海にして赫(かがや)かせた。あたたまった寂寞の天がその顔をにこりほっかりとさせた。

曼珠沙華にも出来ることがあったのだ。

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人との繋がりが切れている日

2018年10月19日 10時21分18秒 | Weblog

つながりが切れている日は蛇口から水が真夜中ひとりで流る                薬王華蔵

人との繋がりが切れている。切れていると思うことがある。淋しいと思ったりするが、煩わしさがなくなってほっとしてもいる。それをどう思ってか、真夜中ずっとたらたらたらと蛇口から水がこぼれて流れている。これは切れていない。遠くと繋がって近くまで来て流れている。

オレはやっぱり淋しいのかもしれぬ。真夜中それに気がついた。ぽたぽた音がしている。

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わたしはミゾソバの花が好きです

2018年10月19日 01時11分25秒 | Weblog

わたしはミゾソバの花が好きです。咲いているところへ来ると決まって立ち止まります。心身を癒してもらいます。ミゾソバはわたしの医療従事者に早変わりします。

菅生川はわたしたちの集落を下る小さな川です。下流域に砂が堆積して、川床が浅くなっています。川幅は5~6mほどでしょうか。水量は多くはなくゆったりと流れています。その川床一面をピンクに染めてミゾソバの花が咲き連なっています。

真正寺の門に至る橋の上からわたしは彼らを見下ろします。蕎麦の花に似ています。草丈が蕎麦の花ほど高くはありません。可愛らしく生きています。それを意図しないで、さらりとこの世を美しいところにしています。

下りていって、腰を屈(かが)めて有り難うを言いたくなります。茎のトッペン先に丸い小さな花粒を着けています。それが、里の秋をいっそう秋らしくしてくれているようです。

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プラスわたしは生きていることを楽しんでいます

2018年10月19日 00時59分25秒 | Weblog

ありがとうございます。わたしは生きています。昨日を生き今日を生きています。プラスわたしは生きていることを楽しんでいます。

目が覚めました。夜中1時です。ふふふ、ふふ。夢の中でもわたしは、生きていることを題材にして、文章を綴って楽しんでいました。

嬉しいのです。わたしがそんな風に物事を考えていられることが。そうでない否定的な捉え方もあったはずなのに、わたしは今肯定していられます。

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さてさて どうなることやら

2018年10月18日 20時06分38秒 | Weblog

空豆と蔓なしエンドウ豆の種を買って来た。小さな園芸用ポットに有機培養土を詰めて、そこに一個の種蒔きをする。毎日水をやって発芽させて、その後に畑に移植する。発芽までに時間が掛かる。忍耐を必要とする。

去年もその前年もやった。その時には立派に育ち上がった。ノウハウはよく分かっているつもりだが、失敗もする。なにしろ注意力散漫。集中力散漫。失敗した年も数え切れない。さてさて。どうなることやら。

それでもそれで楽しい。楽しんでやる。

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畑仕事は楽しいのです

2018年10月18日 17時59分57秒 | Weblog

5時40分には日が暮れましたので、農作業は止めて、家の中に入りました。日暮れが早くなっています。雨は降ったり止んだりでした。止んだときに外に出て畑仕事をしました。楽しめました。農作業は楽しいのです。重労働をしていないからでしょう。根を詰めると言うこともありません。したいだけしたら、あっさり止めてしまいます。したくないときにはしません。

今日の夕方は、畑が雨に濡れているのを幸いに、白菜の苗の移植をしました。苗はプランターで育てたものです。根株を掬い上げるときにどうしても根回りの土がこぼれ落ちてしまいます。水揚げがなかなか上手く行きません。日照りが続くと元気をなくしてしまいます。水撒きはしているのですが、根付き難いのです。やはりポットに種を蒔いて育てるべきです。

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時雨月は10月の異称 ラスト

2018年10月18日 14時12分42秒 | Weblog

過ぎて行くので、新しい季節が生まれる。秋になり冬になる。冬が春にもなる。わたしを過ぎて、新しく新しくなって行く。

わたしを置いて新しく新しくなって行く。

過ぎるのは、過ぎないものがあるから。ものみなわたしを過ぎて行く。

過ぎて行くものは新しいが、わたしはいつまでたっても古いまま。新しくはなっていかない。そこをどうするか。わたしを新しくするにはどうすればいいか。

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