おにょろにょろ、おにょろおにょろ。にょろにょろ。蛇を生きている。蛇ではないのに、蛇を生きて、おにょろにょろ、おにょろおにょろ、にょろにょろしている。そうしているのが好きなのらしい。
畢竟、おのれがそれを選択しているのだ。人間を取り戻していいのに、蛇を生きて、地べたでのたうち回っている。魔界の住人をしている。
仏法はおにょろおにょろが嫌いだ。人間として生きよ、仏陀として生きよと教えている。
おにょろにょろ、おにょろおにょろ。にょろにょろ。蛇を生きている。蛇ではないのに、蛇を生きて、おにょろにょろ、おにょろおにょろ、にょろにょろしている。そうしているのが好きなのらしい。
畢竟、おのれがそれを選択しているのだ。人間を取り戻していいのに、蛇を生きて、地べたでのたうち回っている。魔界の住人をしている。
仏法はおにょろおにょろが嫌いだ。人間として生きよ、仏陀として生きよと教えている。
好きに暮らしていい。そうであるけれども、そうしていない。好きに暮らしていない。何故なんだろう?
考え方は無数にある。一つではない。強制もされていない。好きな考え方をして好きなように暮らしていてもいいのだ。
被害者になったり加害者になったりしている。そういう意識に翻弄されている。弄ばれている。
風に巻き上がる木の葉のようだ。好きに暮らしている者は少ない。考え方は無数にあるが、苦しい方苦しい方を選んで暮らしている。
映画では、御軸が何度も紹介されました。「日々是好日」もその一つです。「不苦者有智(ふくはうち)」「聴雨」なども出て来ました。
「不苦者有智」は「苦しまざる者は智有ればなり」と読むのだそうです。かといって、苦しんでいる者が知恵がないからそうなるのだという非難にはなるまい。
「聴雨」は雨の日には「雨を聴く」あるいは「雨を聴け」ということらしい。雨の日にもまたするべきことはある。その日に合ったことをしていればいいのだ。
お茶の稽古は繰り返し繰り返しだが、それができるということが幸せなことなのだ、それをそういう結論に導いて行くこともできる。そうできれば日々是好日であり吉日なのだ、といったことらしい。
日々是不好日でくらしていてもいい。日々是好日で暮らしていてもいい。好きに暮らしていていいのだ。強制されているようで強制はないのかもしれない。
2時を過ぎてから、家内に誘われてイオンシネマの映画館に行きました。樹木希林さん最後の出演となった映画「日々是好日」を見て来ました。森下典子著、同名の小説の映画化作品でした。樹木希林さんは茶道のお師匠さんでした。お弟子さん役を売れっ子スターの黒木華さんが演じていました。全篇茶道の稽古場といった感じで進みました。最後まで静かな映画でした。
樹木希林さんはスクリーンの中では元気いっぱいでした。
お昼は素麺を茹でてもらって、畑から摘んで来た小葱をたっぷり散らして、啜りました。それから朝、食べずにいたヨーグルトをスプーンで掬って嘗めました。柿が小さく切って混ぜてありました。
でも、考えています。他愛ないことなのですが、考えています。この老爺は間違いなくまもなく死んで行きます。そうであるのに、今日を死なないで、素麺を啜っておいしいとしているこの老爺とは、いったい何者なのか、浮いているのか沈んでいるのか? それを考えています。
午前中に、近くのホームセンター「コメリ店」に行って、切らしていた殺虫剤オルトラン粒剤1袋と有機培養土5袋、それと珍しい各種レタス苗などを買って来た。
みな我が「遊び農作業」の立役者たちだ。それをしたとして、何かになるわけではない。儲けるわけでもない。役に立つわけでもない。褒められるわけでもない。あくまでの遊びだ。
暮らしすべてが遊びの、遊び人である。「好きだなあ」としか言いようがない。
痛い辛い苦しいを言ふ我は今朝弟よりも長く生きをり 薬王華蔵
弟よりも長く生きているのに、それでも痛い辛い苦しいを言っている。ざまはない。ざまあない兄貴が弟よりも長く生きて今朝を迎えている。
痛くない辛くない苦しくない、でなければならないのに。
伊万里牛専門店で牛スジを買ってきた。一塊で1200円。赤身が大部分。茹でで沸騰させて脂のアクを棄てるために、湯を棄てて新しくした。これから1時間弱火に掛けておく。1時間たったら、どでかく切った大根、揚げ豆腐、蒟蒻などをこれでぐつぐつ煮たい。ちびりちびりやる。今晩の酒の肴だ。湯気すらも豪勢だ。誰か酒が飲める友人が来ないかなあ。
5
書いている文章がそのスコップになってくれることがある。宝の山を掘り出すためのスコップになってくれることがある。それでなかなかスコップを放棄できない。死んでしまうそのまえに、これをするべき仕事にする。
ブログを一つまた一つと書き進める。ゴールドラッシュの荒くれ男たちの一人になって。ゴールドが手中に収まらなくてもいいのだ。発見があればいいのだ。
オレは宝の山、感動の山に生きていたのだ、この結論で人生を締め括る。そうありたい。
4
漫然と生きていたくはない。なにがしかの手応えが欲しい。こころをそれで揺さぶりたい。それを感動にして、できることなら、感涙に噎んでいたい。
そうしていられるところを、そうしていない。そうしていないことに疑問をすら抱かないでいる。それとあろうか、不平と不満を募らせてばかりで暮らしている。
だとすると、宝は持ち腐れてしまう。そういうことになる。
生きているということは金銀財宝にも勝る宝を所持しているということに等しい。とすれば、どんなことになるのか。