庭の片隅に石蕗が蕾んでいた。それが今日蕾を開いて咲いた。花粒の黄金粉が微かに匂った。茎の二輪を摘んで来て、仏壇にあざやかなこの世の栄光を飾った。明日は10月晦日。秋は深まって行くばかりである。
畑の白菜の葉っぱを黄緑の大型バッタが食べていた。手に抓んで現行犯逮捕した。足の靴で踏み潰そうとしたが、思い止まった。お命様であること、その一点は覆らなかった。お命様はみな、やがてして、仏陀になるのだ。後ろ足でピョンと大きく跳ねて飛び去って行った。殺しに手を染めずにすんだ。
日本シリーズ第3戦はソフトバンクホークスが逃げ勝った。クローザーの森が広島カープの最後の打者を討ち取った。お見事! これで一勝一敗一分けとなった。9対8の打撃戦。長い試合時間だった。しかし、毎回、手に汗を握る内容で見応えがあった。次も同じく福岡ドーム球場での戦いになる。
見に行こうかなあ。
さ、お風呂に入ろう。あたたまろう。41度に設定してある。ちょっと熱いくらい。で、短時間で上がる。火照って上がる。そのままベッドに潜り込んで寝てしまう。
僕の書く文章は甘ったるい。甘ったるいんじゃないかと恐れる。
秋霜が身に降りかかっても降りかかっても、応えていないのだ。無反応なのだ。すぐに立ち直る術を使う。魔術を使う。決して決して意図してではなく。
ということは? そう、我が力に拠らずして、そうなっている。つまり、自然に、いい方へいい方へ、楽な方へ楽な方へと誘(いざな)われているのだ。それをあとで振り返って、不思議になる。
誰かがいつも助けているのだ。見えないところで見えない誰かが助けに入っているのだ。そうしてその長い長い苦難のお終いに、その瀬戸際を乗り越えているのだ。
すると僕の書く文章は甘ったるくなる。砂糖になる。だらしない。塩味に乏しい。ということになる。
「青空を仰ぐ 力をもらう」
青空が青空をしている。それが何処までも広がっている。それを仰いでいられることが嬉しい。今朝からずっと嬉しがっている。こんな容易いことがやれなかったのだ。青空はいつも青空をして広がっていたはずなのに、それが見えないで来たのだ。今朝はそれが見えている。あまつさえ、それから力をもらっている。青空が青いという事実に感動を覚えている。此処まで来たのだ。此処まで来るまでに明暗が百万遍織り成した。辛いこと悲しいこと苦しいことが大波小波になって襲いかかって来た。過ちを無数に繰り返した。
そこを通って来た。通り抜けて来た。暗闇を抜けたので青空へ来た。人はこの道を歩む。
人生を棄ててしまおうとする若者がいる。新聞でそれを読む。悲しくなる。ああわたしにもその頃があったなあと思う。青空が広がっていても力をもらうことがなかった。結果的だがわたしは棄てなかった。そして此処へ来ている。青い青空を嬉しく眺めている。
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今日の西日本新聞のこだま欄にこれが載った。9月の初めに投稿していた。もう駄目かと思っていた。諦めていた。そして急に「空」の特集に、拾われた。今日はいい日になった。今日も秋晴れの、青空だ。
園芸店からケールの苗2株(70円x2)を買って来て、午後3時から畑に出て、植えた。ケールはキャベツに似ている。葉っぱがどんどん大ききなる。ジュースにして食べられるらしい。その後は、例によって、広め深めのプランターに、買って来たばかりの新しい培養土を詰めて、そこにホウレン草の種蒔きをした。
僕はこんなことをして僕を楽しんでいる。他愛ない。
おはようございます。秋晴れのいい天気です。深呼吸します。今朝の西日本新聞オピニオン欄に、僕が投稿した原稿「青空を仰ごう」が載っていました。嬉しいです。特集「空」に。青空のことを書きました。9月の初めに投稿していました。2ヶ月は眠っていました。もう諦めていました。新聞社から電話を頂きました。特集欄に載せますから、と。もちろん、実名で。