空豆と蔓なしエンドウ豆の種を買って来た。小さな園芸用ポットに有機培養土を詰めて、そこに一個の種蒔きをする。毎日水をやって発芽させて、その後に畑に移植する。発芽までに時間が掛かる。忍耐を必要とする。
去年もその前年もやった。その時には立派に育ち上がった。ノウハウはよく分かっているつもりだが、失敗もする。なにしろ注意力散漫。集中力散漫。失敗した年も数え切れない。さてさて。どうなることやら。
それでもそれで楽しい。楽しんでやる。
空豆と蔓なしエンドウ豆の種を買って来た。小さな園芸用ポットに有機培養土を詰めて、そこに一個の種蒔きをする。毎日水をやって発芽させて、その後に畑に移植する。発芽までに時間が掛かる。忍耐を必要とする。
去年もその前年もやった。その時には立派に育ち上がった。ノウハウはよく分かっているつもりだが、失敗もする。なにしろ注意力散漫。集中力散漫。失敗した年も数え切れない。さてさて。どうなることやら。
それでもそれで楽しい。楽しんでやる。
5時40分には日が暮れましたので、農作業は止めて、家の中に入りました。日暮れが早くなっています。雨は降ったり止んだりでした。止んだときに外に出て畑仕事をしました。楽しめました。農作業は楽しいのです。重労働をしていないからでしょう。根を詰めると言うこともありません。したいだけしたら、あっさり止めてしまいます。したくないときにはしません。
今日の夕方は、畑が雨に濡れているのを幸いに、白菜の苗の移植をしました。苗はプランターで育てたものです。根株を掬い上げるときにどうしても根回りの土がこぼれ落ちてしまいます。水揚げがなかなか上手く行きません。日照りが続くと元気をなくしてしまいます。水撒きはしているのですが、根付き難いのです。やはりポットに種を蒔いて育てるべきです。
7
過ぎて行くので、新しい季節が生まれる。秋になり冬になる。冬が春にもなる。わたしを過ぎて、新しく新しくなって行く。
わたしを置いて新しく新しくなって行く。
過ぎるのは、過ぎないものがあるから。ものみなわたしを過ぎて行く。
過ぎて行くものは新しいが、わたしはいつまでたっても古いまま。新しくはなっていかない。そこをどうするか。わたしを新しくするにはどうすればいいか。
6
「しぐれ」は「過ぐる」からの由来。通り雨のこと。過ぎて通って行く。
では、僕にとっては女性はすべて「しぐれ」だ。みな通り過ぎて行ってしまう。
カツカツカツカツ、ハイヒールの音が近づいて来て、わたしの胸の鼓動を最高に高まらせておいて、そして過ぎる。通り過ぎる。
「無常」というのも、通り過ぎて行くから無常。立ち止まらない。変化して変化して変化して行く。これでいいのだ。
5
電子辞書を紐解く。
「時雨煮」というのは、貝類の剥き身に生姜や山椒などの香味を加えて醤油砂糖で煮染めた料理のようだ。だったら、喰ったことがある。でもなぜそれが時雨煮なのだろう。
「時雨れる」という動詞形も源氏物語の時代から使われていたようだ。泣いて涙がこぼれる、涙を催す意味にも。
4
少し気温が下がった。僕は脱いでいたジャンパーをまた着込んだ。するうちに雲の間から明るい日射しが差し込んで来た。しばらくしてまた曇る。
こうやって次第に秋が深まり、寒くなっていくのだろう。
今朝は珍しく雀が瓦屋根に来て鳴いた。この頃雀を聞くことが少なかった。
3
いまさっきその「秋の時雨」が歩いて来て通り過ぎて行った。一頻(ひとしき)りだった。道路のアスファルトが微かに濡れている。空はしかしまだ降る気がありそうにしている。
合間を縫うようにして百舌鳥が鳴く。渇きを潤した大地と草木は嬉しがっている。
2
時雨。さらりとおんなの人の流す涙、すぐに乾く男の涙を譬喩してもよさそうだ。
本阿弥光悦の名茶碗にこの名がある。
時雨がいまにも降り出そうとする空模様を「時雨心地」と言い習わす。それから発して、涙をそそられる物心をも指すようになった。
1
時雨。「しぐれ」と読む。「過ぐる」から来た語らしい。通り雨のこと。秋の末から冬の初めに掛けて降る。すぐに止む。一頻り続くものの喩えにも用いる。小説の題名に「蝉時雨」があった。
「時雨月」とはいまこの10月の陰暦異称。芭蕉はこの月の12日に亡くなった。「芭蕉忌」もこの月にする。
どうすべきか。
お返しがしたい。お礼がしたい。
どうしていいかは分からない。
生まれてから死ぬまでいただいていただいて過ごして来た。
わたしはお返しをしていない、一度も、少しも。
こんなにもこんなにもいただいて来たのに、それをそうとも思わずにいた。
不平と不満で我が身をいっぱいいっぱい膨らませていたので、それをそう受け止める隙間すらなかった。
その傲慢を恥じる。横着を恥じる。
今日は今日で秋の空を頂いた。高い広々とした空の爽やかさを頂いた。