中間テストが早くも終わってしまった中学校があります。
そこの生徒が昨日、試験問題を持ってきてくれました。
5教科分見させていただきました。
その中で、社会のテスト問題に感心しました。
一番目の問題には最近新聞に掲載された写真が所狭しと載っていました。
社会のテストは、教科書に乗っている「地理」や「歴史」に関するこまごまとした問題ばかりだと思っていました。
それがいきなり、富士山が世界文化遺産に登録されたことや、マレーシアで開催されたTPPに関する会議の話だったりが問題となっていました。
“おかさん”は中学の時、社会が大嫌いでした。
地理や歴史のこまごまとしたことを頭に収録しても意味がないだろうと考えていたからです。
そんな“おかさん”は、高校の社会科の授業のお陰で「社会科」が好きになりました。
一切教科書など使わないその授業は、「秩父事件」を題材に「問題」、「差別」というものについて、自分達で図書館の本などを使って調べ考えろ。というようなものなどでした。
すごく新鮮でした。
その当時まだ健在だった、母親に、「関東大震災の時にデマのお陰で朝鮮の人たちが虐殺を受けたこと」などについて意見を聞いたりもしました。
母親の中にはその当時まだ、根強く「朝鮮人」に対する差別意識が残っていたのを思い出します。
そして、自分自身の中にある「差別意識」について気付かされもしました。
話が横道にそれてしまいましたが、本来、「社会科」は現在の世の中の仕組みや構造を学習し、それをよりよいものにしていくことを考えさせる科目だと思います。
それが、こまごまとした事実関係だけの記憶競争にゆがめてしまっているのはおかしい、と常々思っていたので、今回の出題形式に感心したということです。
<追記>
中学の時の社会科の学習が全く無意味だったかというとそうではありません。
いま司馬遼太郎さんの「この国のかたち」を読んでいますが、中学の時に習った断片的な歴史知識が役立っています。
無味乾燥だった歴史事象の隙間を、司馬遼太郎さんの多方面からの資料、解説が埋めてくれるのでとても愉しく読めます。
「これぞ生きた歴史。」
まるでドラマを見ているような感じです。
そういう意味で、中学の時の「歴史」を勉強しておいて良かったな。と最近感じています。