「酒都 西条」
酒どころ1 酒都・西条 未来を醸す 2022/02/23 05:00 読売新聞オンライン 地域版New門
酒都・西条(東広島市)は、灘(兵庫県)、伏見(京都府)と並んで「日本三大酒どころ」と称される。新型コロナウイルスの感染対策「まん延防止等重点措置」が適用され、酒宴の機会が減り、酒都は、苦境に立つが、酒造シーズン真っただ中の各蔵元は、技と伝統を受け継ぎ、銘酒造りに励んでいる。西条が「酒どころ」として発展を遂げた歴史と、将来を見据えた取り組みなどをたどる。
昨年11月5日、東広島市など県内の映画館で酒造りをテーマにした作品の先行上映が始まった。現在は全国各地で上映されている。
タイトルは「 吟ぎん ずる者たち」。竹原市出身の油谷誠至監督がメガホンを取り、東広島市安芸津町出身で、「吟醸酒の父」と呼ばれる三浦仙三郎(1847~1908年)に光を当てた。
仙三郎を演じた中村俊介さん、仙三郎ゆかりの酒蔵の養女役を務めた比嘉愛未さんらは、舞台あいさつで広島の酒造りへの思いを語った。
「軟水」の克服
広島の酒の仕込み水は、ミネラルが少ない軟水。酒造りには向かず、仙三郎が30歳で酒造を始めた明治初期、酒の質が悪くなるなど困難に直面した。その頃、広島の酒蔵は「灘に負けない酒を」と、技の改良に取り組んでいた。そんな中、研究と実験を重ねた仙三郎は「三浦式軟水醸造法」を開発。酒造の元になる 麹こうじ を低温でじっくりと育てることで、軟水でもしっかりと発酵し、ふくよかな美酒を造れる道を切り開いた。
この製法は県内の酒蔵に広まって、 杜氏とうじ たちの技を育てた。1907年の全国清酒品評会では、広島の酒は優等1、2位を独占した。
安芸津町の榊山八幡神社には仙三郎の銅像がある。案内板ではその酒を「 琥珀こはく 色に輝き、滑らかな舌ざわりと、ほんのりとした甘みがある」と記している。
需要増への歩み
仙三郎ら造り手の存在に加え、交通網の発展も西条が酒都になったきっかけだ。
江戸時代、酒造技術が未熟だった関東に比べ、灘や伊丹(兵庫県)など上方の酒は上質で人気が高く、広く流通していた。 廻船かいせん で江戸に運ばれ、「下り酒」と呼ばれていた。一方、安土桃山時代から酒造りの伝統があった京都・伏見は海路から遠く、江戸への出荷は伸びず、交通網が整備された明治期に復権した。
西条は西国街道の要衝として人々の往来が盛んで、江戸期には大名が宿泊する本陣も置かれた。毎月4日に「西条四日市」が立ち、商いや文化が発達し、豊かな地下水の恵みもあって酒造りが始まった。
ただ、江戸期にはまだ物資の流通網が 脆弱ぜいじゃく で、西条の酒も全国には届きにくかった。
劇的に変わったのは、1894年の山陽鉄道(現・JR山陽線)開通だ。大量輸送が可能になり、鉄道延伸で販路が拡大した。更に、呉の海軍鎮守府、広島の陸軍第5師団の設置に伴い、酒の需要が伸び、西条はその供給地となっていった。
国産ウイスキーの父も
この地の酒造りのDNAは、国産ウイスキーにもつながっていく。
東広島市と隣り合う竹原市には、NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルになった竹鶴政孝(1894~1979年)の生家・竹鶴酒造がある。政孝の父・敬次郎は、仙三郎らと酒の改良にも精力的に携わり、酒造りへの礎を築いていった。
熱意を間近で見ていた政孝は英国留学を経てサントリーの創業者・鳥井信治郎が営んだ「寿屋」の醸造所長に就任。「大日本果汁」(ニッカウヰスキー)を起こし、「ウイスキーの父」となった。
酒都に発展していった西条。どんな銘酒がそろっているのだろうか。(石田仁史)
西条の酒造りは、江戸初期までに整備された「西国街道」の宿駅が置かれて以降に始まったとされる。京都と下関(山口県)を結ぶ街道は1700年代半ばからは参勤交代にも使われ、県内には9宿駅があった。「西条四日市」には広島藩の本陣(大名らの宿泊所)が設けられ、現在、酒蔵通りには「御茶屋跡」と呼ばれる本陣の表御門が復元されている。
商家や 旅籠はたご が増え、幕末の1865年に記された「宿駅四日市町並絵図」には160軒を超える家屋がある。その頃から酒造業者が次第に増加。三浦仙三郎の軟水醸造法に加え、東広島市の精米機メーカー「サタケ」の創業者・佐竹利市(1863~1958年)が開発した動力式精米機も安定した酒造りを可能にし、西条では今や、社名が躍るレンガ製煙突のある7社が〈酒都〉を形作る。
*https://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO047372/20220222-OYTAT50055/ より
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