富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

天野街道 花だより 2018.4.6.

2018年04月08日 | 館外活動

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 2018年4月6日 11:21 天野山金剛寺 金堂 (重要文化財)

平成の大修理 平成21年~29年 9年間の解体修理を経て、再び姿を現した金堂

平安末期の治承元年(1171)建立された金堂の大規模な修理は3回。

1度目は1605年に豊臣秀頼が、2度目は1700年に岸和田藩主・岡部美濃守長泰がそれぞれ徳川幕府の命を受けて行いました。

 

 多宝塔 (重要文化財)

創建年代は不詳。しかし鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(1191)に修理を計画した記録が残り、この頃には既に建てられていたと考えられています。
慶長10年(1605)に豊臣秀頼の命により、大規模な修理が行われています。

今回は、屋根の全面葺替えがおこなわれています。

 

御影堂の 観月亭 (重要文化財) 

御影堂の創建は平安時代。 後村上天皇御在所時代に観月亭が東側に突き出す形で付け加えられたという。

後村上天皇が京へ想いを寄せてお月見をされたといわれています。

 

 御影堂の 観月亭より金堂を望む。

南北朝時代、正平9年(1354)北朝の三上皇(光厳、光明、崇高上皇)が足利尊氏により当寺に幽閉されました。原因は足利尊氏と弟直義の内紛があり、尊氏は 敵対関係にあった南朝方と一旦和睦を申し入れざるを得なかったことによります。

こうした情勢を受けて同年10月には南朝の後村上天皇が当寺に来山し、摩尼院を御在所される一方、食堂を正殿として大政を執り行ないました。

この4年後に足利氏の内紛が収まり、足利尊氏は再び北朝方につきました。

結果、北朝の三上皇が京に戻られ、またその2年後に後村上天皇は観心寺に移られたが、4年もの間、敵対関係にあった南北朝が同舟していたこととなり、真に希有な歴史が当寺には刻まれいます。 
 南朝方御在所 :魔尼院、 北朝方御在所:観蔵院

なおその後、南朝二代の天皇(長慶、後亀山)は、当寺を御在所とされ後村上帝時代を入れ30年間にわたって南朝方の行宮となりました。 (ブログ:「古寺巡訪」より引用) 

 

 岸和田藩第三代藩主 岡部美濃守長泰(ながやす)(1650~1724)寄進の盥盤(かんばん)(手水鉢)

 

 元禄十三年(1700)の寄進

岡部長泰は、元禄十三年(1700)に幕府の命を受けて、金剛寺の修理を行った岸和田藩の殿様です。

彼は、宝永元年(1704)姫路藩主本多忠国の死去に伴い、大和付け替え工事の引継ぎを幕府より命ぜられ、完遂するなど、水利・治水に精通するなど民政に手腕を認められました。

また、元禄16年(1703)、京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行ないました。これが「岸和田だんじりまつり」の起源となって、今日に至っています。

それと、「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士討ち入り(元禄15年、1702)で、その原因となる浅野長矩(ながのり)刃傷事件(元禄14年、1701)、江戸城中で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭の吉良上野介義央(よしなか)に斬りかかった松の廊下事件で、吉良上野介が将軍の年頭の挨拶を朝廷へ届け、それに対する答礼として伝奏の勅使が江戸に下るのを迎える勅使の「御馳走役」に任ぜられていたのが浅野長矩ですが、実はその前年の御馳走役に任じられたのがこの岡部長泰です。彼も吉良上野介からいろいろと注文があったようです。

また彼は文武を奨励し、特に儒学を好んで林大学頭鳳岡に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物でもあった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されているそうです。

 

 岸和田の殿様が寄進された盥盤に盃状穴

境内の中の、しかも殿様寄進の盥盤に、誰がいつ何の目的で盃状穴をあけたのでしょうか?

こんなんに穴開けても、おとがめないの?

 

 11:27 桜は八重以外は散ってしまいました。

 

 1:43 金剛寺の北の入口にあった道標

 

11:59 街道沿いにあった賽の神

砂岩の丸石でできています。

 

 12:19 暖かい日が続いたためか、タンポポだらけです。

 

 12:31 青賀原神社 下里地区にある静かな木立の中の村社

 

12:58 名産「小山田(おやまだ)の桃」の花

 

13:09 白い花は梨の花

 

13:03 レンゲがきれいでした。こんな高いところでも水を引いてお米を作っているようです。

 

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13:15 キジの鳴き声が聞こえると思っていたら、出てきました。

〈画面をクリックすると、キジが大きくなります。〉

 

13:24 「右 あまの 左かうや 道」の道標

 

13:30 遠くに二上山

 

13:31 街道近くまで田んぼが拡がり、畔には菜の花

 

13:47 「穴地蔵」と呼ばれています。安産の地蔵さんとして、三叉路の真ん中に北向きにあります。

 

14:04 二つ池で宿り木を見つけました。

 

14:06 陶器山トンネルの真上にある休憩所。トイレもあります。

 

15:11 平安時代まで須恵器を焼いていた窯跡が900基もあるそうです。

 〈画面をクリックすると「案内板」が大きくなります。〉

 

15:22 天野街道を北に歩いています。

 

15:28  自生のモチツツジ

 

15:31  街道沿いのお地蔵さま

文政八年(1825)の銘が見えます。

 

15:35  地元の方々で維持管理されているようです。

 

15:47  天野街道と西高野街道の分岐

道標やお地蔵さまが見えます。

 

16:13 最終目標の岩室山観音院

かつては大きなお寺であったようですが、戦国の兵乱や大阪の陣などで戦災に遭い、現在の伽藍になっています。

かつては存在した大門から天野山金剛寺までが天野街道であったということです。

 

16:03  梵鐘は旧冨田林村住の鋳物師 田中記右衛門により安永七年(1777)に製作されました。

 

16:05  境内にある嬉組の行者 正圓の西国三十三度供養塔

天明三年(1783)につくられた立派な宝篋(きょう)印塔です。

〈画面をクリックすると説明文が出ます。〉

 写真撮影:2018年4月6日

桜 デコメ絵文字2018年4月8日 林 保夫 (HN:アブラコウモリH )

 


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