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午前11時頃、近鉄信貴線・服部川駅に到着。小雨なので傘なしで出発。
八尾市立歴史民俗博物館(入館料は200円)、館内は写真撮影禁止。「大和川流域と高安山その歴史と文化」の資料を展示。2階には日本刀のできるまでと銅鐸の製作工程資料などが展示されています。
「松の馬場」東高野街道から玉祖神社まで参道の街道に面して、大鳥居が立っています。
八尾市高安ではケイトウや小菊が栽培されています。写真はケイトウ畑。
心合寺山(しおんじやま)古墳。古墳時代に作られた前方後円墳。全長160m、高さ13m規模の古墳です。古墳の半分は当時の姿や埴輪などが再現されています。
心合寺山(しおんじやま)後円墳部から見た大平和記念塔(富田林市)。記念塔は羽曳野丘陵地に建っていて結構高いですね。古墳場所は航空機の大阪空港(伊丹)の進入コースになっており、頻繁に飛行機が飛んでいました。
高句麗・好太王碑(こうたいおうひ)<複製>大阪経済法科大学構内に設置
中国吉林省にある古代国家の高句麗・好太王の功業を称えた碑です。実物は中国吉林省集安市にあります。朝鮮社会科学院が好意で複製を作成、大阪経済法科大学が寄贈を受けたもの。碑には1800文字が彫られています。「倭」字は10文字あり、日本とのかかわりがあったようです。
愛宕塚古墳=八尾市神立
古墳時代後期の両袖式の横穴式石室は径約25m、高さ6,5m、大阪府では最大級。遺物では家形石棺の破片、鉄地金銅張りの馬具、ガラス玉の首飾り、須恵器などの出土品が見つかっています。当日は雨あがりのせいか、蚊の大群に襲われました。
by matsu
リレーします。アブラコウモリH
〈アブラコウモリが印象に残ったところ〉
心合寺山古墳
今古墳は、仁徳陵や応神陵のように「小山の深い森」のようになっていて、鳥や虫の自然宝庫ですが、造られた時はその真逆!人が造った埴輪や人が運んだ葺石の人工の築造物。
古墳時代に自分がいたら、さぞ大自然の中の人工の小山で目立つ存在であったのでしょうね。空中写真でも160mのこの古墳はすごく目立ちますね。
好太王碑〈複製〉
大阪経済法科大学さんの許可をもらい、見せていただいた甲斐がありました。
高さ6.4mと思っていた以上に大きく、刻まれた1759文字が圧巻でした。みんなで「倭」の字や、「好太王」の文字を探しました。
すごい見晴らし
あべのハルカスもこんなに大きくはっきりと!むこうで旗を振っていたら見えるかも...
実は今回巡ったコースより少し上の玉祖神社境内で撮影。実際コースは、疲労と時間の都合のより、みなさんの意見でここまで行くことを断念。私だけが見れた絶景です。
おお、これは地元富田林に近い大阪狭山市のガスタンクではないのでしょうか?
これなんでしょうね?
八尾市神立の三叉路、地蔵祠の傍らにあった石
どうみても加工された石に見えますが、なにか信仰と関係しているのでしょうか?どうも宝珠のようにも見えますが、なんでしょうね...よく似たものは奈良県の御所市あたりでもよく見かけましたが...
これは盃状穴 神立地区の地蔵堂?で見かけました。
泉州や南河内でよく見かけますが、これだけきれいに深く彫られた盃状穴は珍しいですね。
ありました、おかげ灯籠
大窪地区の式内社 御祖(みおや)神社跡の境内で。式内社 御祖神社は明治の合祀令で玉祖神社に合祀されて今はありませんが、手水鉢やこの「おかげ灯籠」が残されています。
基礎に「おかげ」、側面右に「天保二(1831)辛卯三月建立」と銘記されています。ちょうど前の年、文政13年(=天保元年)から流行った伊勢神宮のおかげ参りに呼応して建てられた伊勢灯籠と思われます。
〈写真をクリックすると「おかげ」が大きく見えます〉
ありました、金毘羅大権現の灯籠
服部川地区の服部川八幡宮境内にある灯籠。天保15年(1844)に建てられました。
「金毘羅大権現」―金毘羅さんは、船や船員さんを守る神様で有名ですが、江戸後期には民衆に、伊勢参りと同じく金毘羅参りが流行しました。その時の面影を残す灯籠ですね。
〈写真をクリックすると「金毘羅大権現」が大きく見れます〉
ここからは道標
中高安小学校前道標 「右信貴山立石」
「天保十一年(1840)庚子(かのえね)九月日(服部川村)/右信貴山立石/西國三十三所(願主)/左おうと古へ(観音同行)」()は地中に埋もれた部分。
「立石街道」と「おと越え」の分岐、小学校の通用門左にあります。服部川村の観音講の人たちが西國三十三所参りを祈願して、旅人の道中安全を祈る気持ちから建てられたと思われます。
自然石を加工した大きな道標ですね。「立石街道」と「おと越え」はいずれも高安山を越えて、大和に向かいます。
大窪地区「左おうとごへ」道標
大窪地区の街道沿いにあります。昔の人の行き来が見えるようです。
神立(こうだち)地区「右おと古(こ)へ道」道標
天保十五年(1844)に大窪村により建之された道標です。側面右に「左 八尾」とあります。
八尾街道→立石街道→おと越えと続き、さらに奈良、伊賀、伊勢と人や物資、文化、風習、言語まで往来します。
道は途絶えることなく続いているのですね。
神立(こうだち)地区「十三越」里程標
八尾市北部より大和に向かう十三街道の里程標。十三街道は縦に走る河内街道や東高野街道から分岐し、山越えの重要な街道で、古くは在原業平や幕末に天誅組に参加した伴林光平も通った道ということです。
〈館外学習資料〉
〈画面をクリックすると拡大します〉
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