〈リバイバル・アーカイブス〉2019.9.12~9.26
原本:2019年1月24日
西野々古墳群1号墳 明八塚(めはちづか)
2018年10月28日(日)に富田林教育委員会、大阪市立自然史博物館、地学団体研究会大阪支部主催で、「100万年の自然と人をめぐる石川ハイキング」がありました。60名近い参加者があったこのハイキングは、富田林市域を流れる石川のポイント毎の観察地点を設け、自然の成り立ちやそれに伴う人々のくらしの変遷をそれぞれの分野の先生に解説していただき、巡りました。
このコースを再度調査し、新たに解ったことを加えてご紹介したいと思います。見どころが多いのでいくつかに分けてご案内します。
今回は現地学習で説明のあった「西野々古墳群・田中古墳群」です。
横山汐湧石を見た後、石川右岸の道(市道彼方長野線)を北向きに行くと、道のすぐ横に明八塚が姿を現しました。
6世紀前半の円墳で、直径46m、墳丘の高さ6mと、西野々古墳群では一番大きな古墳です。
墳丘の調査はされていないので詳細は不明ですが、1979年と2010年に周囲を発掘調査した時に、幅6.5m、深さ0.8mの周濠が巡り、そこから6世紀前半の須恵器片と円筒埴輪が出土したそうです。
伝承によれば、かつては大きな天井石が露出し、南に向かって開口した石室があったと云われていることから、横穴式石室があったものと思われます。
Google Earth Proによる空中写真では、西野々古墳群の様子がよくわかります。
石川右岸の平坦な河岸段丘上に4基(5基ともいわれる)の円墳・方墳が築かれています。
1号墳は道路で欠損していますが周濠が見てとれます。2号墳(千代塚、円墳)は墳丘部の土砂が崩され形が変形しています。3号墳は方墳ですが、これも大きく削平され変形しています。
この辺りは田んぼで、3km余り先の井堰より引いた井路の支流で灌漑されています。
2号墳 千代塚 円墳
墳丘中央部をかなり堀り取られた状態になっています。周りを囲む石垣は後の時期に田んぼに土砂が崩れるの防ぐために築かれたもので、葺石のように全体を覆うものではありません。
中央部の凹地には大きな自然石が残っていますが、石室に使用されていたものかは判明しませんでした。
2号墳より1号墳を望む。
1号墳の周濠の周りを井路が囲むように流れます。回りは田んぼで、おそらく6世紀前半の古墳時代は、荒芝地に古墳が築かれ、後の時代に上流に井堰が築かれ、井路が引かれることにより水田耕作が可能になったと思われます。
こちらは西側から見た見た3号墳 方墳。
現在にいたるまで削平されて原型をとどめていませんが、比較的この方向からは方墳である形状が解ります。(手前の一辺が直線状) 背後の山は嶽山です。
4号墳 円墳
3号墳(南南東)より望む。田んぼの向こうには民家があり、その背後は結のぞみ病院です。
4号墳は墳丘上に祠があります。
西北西から見た西野々古墳群の4つの古墳
西野々古墳群を始め、富田林南部の石川右岸に現存する3つの古墳群。
表記の通り、この3つの古墳群は築造された時期、立地、地目、標高が異なります。
およそ100年という比較的短い期間に3つの特徴的な古墳群が造られたことは興味深いことです。
西野々古墳群は 低位河岸段丘上の平地(標高85m)に立地し6世紀前半の築造と考えられます。
田中古墳群は西野々古墳群に対して比高差25m(標高120m)で、嶽山(284m)の西斜面の丘陵の上に6基点在します。
嶽山古墳群は群集墳で23基あり、田中古墳群の南南西670mのところにありますが、嶽山と金胎寺山(標高296m)が形成する西側の急斜面の尾根に立地し、標高が120~200mの間に支群を形成しています。
〈画面をクリックすると拡大します〉
富田林市の文化財課が発行している富田林市の遺跡分布図ですが、古墳が羽曳野丘陵の東端に連続的に築造されていることと石川をはさんで右岸(東部)の篝山(かがりやま)の丘陵(低位河岸段丘面)から楠風台の中位河岸段丘面、嶽山・金胎寺山の西斜面に点在していることがわかります。
〈画面をクリックすると拡大します〉
この表は市文化財課の遺跡分布図を元に作成した「富田林市域の古墳」の表ですが、富田林市域に多くの古墳が造られているのがわかります。
そして、4世紀後半から7世紀後半の300年にわたり、市域のどこかで前方後円墳、円墳、方墳、前方後方墳が造られているのがわかります。
〈画面をクリックすると拡大します〉
ところで、この表をよく見ると、富田林市域では銅鏡が出土する4世紀後半の前期古墳と、6世紀後半から7世紀後半の横穴式石室をもつ後期、終末期古墳が多いことがわかります。
それに反して、大王家の百舌鳥古市古墳群の巨大古墳が連綿として造られた4世紀末から6世紀初頭の250年間の古墳が少ないというのも特徴的かと思われます。
玉手山古墳群などもそうですが、百舌鳥古市古墳群が造られた時代にその周辺の古墳の築造が少なくなるという現象は何か意味するものがあるのでしょうか?
なお、富田林市域においては、以下のような貴重な遺物が検出されています。
1.鍋塚古墳 消滅 4世紀末 円墳 鉄製方形板革綴短甲
三角板革綴短甲の前の時代の短甲
2.真名井古墳 消滅 4世紀初 前方後円墳 中国製三角縁三神三獣神獣鏡
邪馬台国が中国 魏に遣使していたとされ、卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする説があります。
3.お亀石古墳 現存 7世紀初 方墳 横穴式石槨、新堂廃寺と共通する平瓦が槨壁に積み上げられている。
被葬者は新堂廃寺の創建者か。お亀石古墳、オガンジ池瓦窯跡、新堂廃寺で国史跡
4.宮林古墳 消滅 5世紀初 方墳 多くの鉄製具
5.板持丸山古墳 消滅 古墳中期 円墳 仿製(日本で中国の舶載鏡をまねて造られた)半円方形帯変形神獣鏡(東京国立博物館所蔵)
6.板持3号墳 消滅 4世紀末 前方後円墳 4世紀末 仿製重圏文鏡
7.山中田1号墳 消滅 円墳OR前方後円墳 4C末~5C初 三角板革綴短甲 石釧 勾玉、管玉などの玉類が600点以上
8.田中1号墳 半壊 円墳 6世紀中 鉄地金銅張辻金具(馬具)、杏葉(ぎょうよう、馬具)→乗馬の風習が認められる。
9.田中4号墳 現存 円墳 6世紀後半 横穴式石室が見学可能
10.南坪池古墳 現存 方墳 7世紀後半 同心円叩目文塼片→錦織廃寺、細井廃寺の瓦と焼成・施文・技法が共通
11.廿山古墳 現存 4世紀末 前方後円墳 古墳の保存のため下をくぐる市道をトンネル化
12.廿山南古墳 消滅 6世紀前半 円墳 副葬品の玉類の「重層ガラス玉」は、西アジアから中央アジアで生産された可能性が高いことが判明 最大7連 ガラス玉内にある金属箔は銀であることが解った。
〈画面をクリックすると拡大します〉
千代田橋からみた嶽山古墳群
今回のハイキングでは通過しましたが、石川の向こうの山麓の斜面に嶽山古墳群があります。
田中古墳群 ハイキングでは、ここも行程の都合で行くことができませんでした。
横穴式の石室の6基の円墳から構成されていますが、1号墳半壊、2・3号墳消滅しています。石室の材質は花崗岩でお亀石古墳のような切石は使われていず、野石を積み上げています。
1号墳においては、辻金具、杏葉といった馬具が出土していますので、乗馬の風習をもった地域の有力者がいたかもしれませんね。
田中4号墳
初芝富田林中学校高等学校の敷地内にあり、見学が可能です。
30mの円墳で、横穴式石室が保存されています。
(見学には事前連絡が必要:初芝富田林中学校高等学校 0721-34-1010 )
露出した田中4号墳の横穴式石室
入口付近
花崗岩の自然石を使っています。
羨道付近 奥が玄室 石棺はありませんでした。
2号墳からは家形石棺の蓋が割れた状態で半分だけ見つかっています。(現在行方不明)
現地の案内板より
石室の長さは9.15m、玄室は縦4.25m×横1.55m×高1.6m、羨道の長さは4.9mあります。
〈案内板は写真をクリックしてください〉
4号墳付近にあった2つの巨石
ひょっとして消滅した古墳の石室の部材かもしれません。
4号墳の近くの円墳とおもわれる土盛り
柵がしてあり立ち入ることはできませんでした。
このように、富田林市域にもたくさんの古墳があるのをご紹介しました。
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