西板持・彼方(おちかた)地区の空中写真
西板持地区(写真右上)の集落は8世紀ごろ成立した正方位条里地割に乗っかっており、集落が8世紀以降に成立したことがわかります。
文献的にも、続日本紀に養老三年(719)から宝亀元年(770)かけて板持氏の記述が盛んにみられ、特に「神護景雲二年(768)、板持真釣は外従五位下を授かり、伊予国の介(すけ、二等官)に任ぜられた。」ことがわかります。板持村は奈良時代、板持氏の本貫地であったと考えられます。
左側の石川との間の区画が乱れ、条里地割が消されていることがわかります。これは、その後幾度となく石川が氾濫を繰り返したことが原因であると思われます。
南部の彼方地区(写真の左右に横切る道路、国道309号線より南)は、空中写真で円形に見える土地割がよく見ると存在します。現地で確認しても自然にできた直径400mの円形地形とはとても思えない、まさにミステリーサークルです。ここには、水路がカーブしながら流れているところがあり、円形地形の中に、石と砂で盛り上げられた塚が3つ存在します。
( ブログ 富田林のミステリーサークル 2014.9.26. 参照 )
西板持地区を拡大した写真
左 石川、右 佐備川の間に立地する集落で、氾濫原の中の微高地に立地します。
集落および集落の周りに、一辺約109m(1町)の条里地割が確認できます。富田林市の条里地割は方位が正しく南北を指す規則正しい正方位条里になっています。これは実は施工するのにとても難しい!
まず、条里制施工は田んぼを作るわけですから、水平面でなくてはならないのでとても難しいわけです。しかも、土地の区画だけでなく、上流から水路を引っ張ってきて条里の周りにめぐらさなければなりません。もちろん水源の確保も必要です。ため池や川からの取水、場合により数キロも井路として引っ張ってくる必要もあります。(荒前、深溝、畑田、堀越井路など)
自然を克服して、高低のある荒地を整備して水平面を作り、水源を確保しそこから水を引っ張ってくる。これだけでも充分難しいのですが、さらにその区割りがきっちり東西南北を向くように作る、これは極めてむつかしいわけです。しかも、今から1200年以上も前の奈良時代にです。私たちのご先祖はいい仕事をしているなと思います。そして、その恩恵を今も私たちは受けているわけです。
この機会に条里制の説明をさせていただきます。
大化二年(646)に大化の改新の詔が出され、戸籍の作成および班田収授法について記載されています。しかし、実際施行されたのは、大宝元年(701)の大宝律令制定以降と考えられています。
その口分田の班給のため条里制が施行されたわけです。高校の教科書でも紹介されているように、「良民男子 - 2段、良民女子 - 1段120歩(男子の2/3)」を班給され、班給された田は課税対象であり、その収穫から「祖」が徴収されました。(租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%)
班田収授制は、日本の律令政治の税収入の根幹となる重要制度の一つであり、律令が整備された飛鳥時代後期から平安前期にかけて(701~902)行われたと考えられています。富田林市域においての条里制の施行は、中野北遺跡などの考古学的資料より、奈良時代、8世紀には施工されていたのではないかと私は考えています。
【大阪南部の条里プラン】
大阪南部の正方位条里 和泉地方は正方位条里でない条里地割が多い。地形や耕作可能な平野部の大きさ、施行した地方官の考え方にもよると思われます。
【富田林市周辺の条里地割】
石川左岸・右岸・河南台地など、羽曳野市・富田林市・太子町・河南町・千早赤阪村に至る現存する広大な条里地割が、同一規格の正方位条里で、比較的短い期間に大動員して完成させたものと思われます。(条里制の施行に一貫性が見られるため)
大工事を短期間で完成させる技術は古くは古墳時代に、また推古朝には狭山池、そして後の奈良時代には粟ケ池や同時に開削されたと思われる深溝井堰、大仏建立など、小さい国の割には大工事が好きな国民性もあってこの広大な正方位条里も完成で来たと思われます。(大工事が好きなのは、明石大橋・青函トンネル・スカイツリーをみてもわかると思います。)
しかしながら、いくら技術があってもそれを施工する財力・統率力を含めた総合力が必要です。それでは一体だれが施工したのでしょうか?
この地域(ひとことでいうと石川地方)の有力な豪族(律令時代は地方官)というと、きっと先祖がお亀石古墳に葬られていて、オガンジ瓦窯で瓦を焼いて、新堂廃寺を造営し、子孫が後に畑ヶ田遺跡や畑ヶ田東遺跡の役所で地方官として勤務していた人だと思います。
私見ですが、私は蘇我氏であると思っています。
西板持・彼方地区
中央を左右に横切るのが、国道309号線。それよりほぼ南が彼方地区になります。
円形に見えるのがミステリーサークル、右半分は一辺約109m(1町)の条里地割が確認できます。
富田林市の条里地割は規則正しい正方位条里になっています。なぜ施工者が正方位条里にこだわったかと言いますと、遣隋使・遣唐使以降、中国の条坊制の思想が伝えられ、藤原京や平城京がそれにならって作られました。東西南北碁盤の目状の区割りは、「班田収授法」の口分田の区割りにも取り入れられ、自然を克服した正方位条里が最高のものと考えられたようです。奈良盆地や河内松原北部に大規模な正方位条里が現存します。
もちろん、泉州地方のように正方位でない条里もたくさん現存しています。
地図に条里地割が確認できるところ(赤点線)と高度(地図より読み取りと河川高度については「Google Maps 標高表示(V3 APi版)」緯度・経度・高度検索を利用)を入れてみました。
これにより、川面とほとんど比高差がないことが解ります。(河川敷高度に対し農地比高差1m、居住地2.6mしかありません。)
青の薄消し部分は河川の氾濫により、土地割が変わったと考えられるところです。水路もそれに従い、曲がりくねっています。条里地割はそれにより底の部分が消滅したと考えられます。
条里地割がz施行された8世紀以降に何度となく、洪水に見舞われたことでしょう。
いまはしっかりした人工堤防がありますので、よほどのことがない限り防げるとは思います。
北部にミステリーサークルが見えます。
赤く塗ってあるのが、石と砂を積み上げた塚で、3カ所に存在します。地図右端に条里地割(赤点線)が確認できます。現地に行くと、ミステリーサークル部分は普通のビニールハウスと田んぼです。
ミステリーサークルは、かつて川の氾濫が繰り返され、その時々の流路変化の変遷が、現在の地形・区割りを作り出したものと考えられます。
南部については、一部土地区画の整備がなされた田んぼがあります。
上と下の赤の実線をご覧ください。高度差がほとんどないことがお解りいただけると思います。
前の地図とほとんど同じですが、彼方の集落のところまでを載せてみました。
彼方集落は河川との比高さ7mの河岸段丘面に立地し、洪水に見舞われる心配は少ないと考えられます。これより上流部は河岸段丘が河岸段丘が発達し、比高差が10~15mもあります。
かつて上流部に井堰のない時は、増水時にここから一気に濁流が流れ出たと考えます。
2014.10.31. 17:16
西板持地区の水田とビニールハウス群 北東部二上山が見えます。
2014.9.19.16:24 西板持地区の里芋畑
大規模に作られている農家があります。石川右岸は砂質の水はけの良い土壌なので、栽培には適しているのではないかとお思います。有名な品種の「石川早生」は、ここの近くの南河内郡石川村(現在の河南町)が原産地と言われています。
ビニールハウスと条里制の道
条里地割は水路とあぜ道がセットになっている場合が多いです。元来もっと細い道であったと思われます。
1200年以上が経過して、道や水路が微妙に曲がりくねっているのが特徴です。1200年が経過して、水路の法面が崩れたりして、もともと直線のあぜ道が自然に曲げられたようです。道路を拡幅する時に変化する場合もあるでしょう。
この写真も微妙に曲がっていますね。条里地割の道はどちらかにたいがい水路があります。
条里地割が交差する地点。写真は南より北に撮影。微妙に曲がっていますね。側に水路があります。
西より東、西板持の集落側を撮影。
同じく、西より東を撮影。
条里地割の1坪は10段からなり、成人男子は2段の班給を受けました。1坪は1町(=約109m)四方からなり、道の横に必要な用水をまかなう水路が走っています。
道は現地に行くとこのように微妙に曲がっていますが、2500分の1や1万分の1の地図上では、まっすぐな道に見えます。
次は水路が蛇行している例。
区割りが度重なる川の氾濫により乱されている土地に多く存在します。
曲がりくねった水路
曲がりくねった水路
曲がりくねった水路
曲がりくねった水路
次は条里地割が度重なる川の氾濫により消滅してしまった例
これより先は道路が存在しません。
条里地割が消滅してしまった例
前方の曲がりくねった土地割に、直線の条里地割がぶつかってそこで消滅しています。よほどの川の氾濫があったことを連想させます。
次は条里地割が曲げられてしまった例
これより先、直線の条里地割が急に石川の流れ(左→右)の方向に曲がります。
条里地割が度重なる川の氾濫により消滅してしまった例
この地点で向こう側から延びてきた条里地割が消滅します。
日も暮れてきたので、これで終わりにします。
関連ブログもご覧ください。
富田林のミステリーサークル 2014.9.26.
空中写真 条里地割と川の氾濫 ―― 北大伴地区 2014.10.21.
・参考:地図→富田林市地形図 2500分の1
空中写真→富田林市 2500分の1 空中写真
緯度・経度・高度検索→Google Maps 標高表示(V3 APi版)
史料集→富田林市史 第4巻(史料集)
2015.1月12日 ( HN:アブラコウモリH )
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