サークルの練習会にいった。
今日はほんとうは行く予定ではなかった。
上の子がたまたま練習会場の近くで映画を見るというので、ふらっと寄ってみた・・
つもりだったが、気付けば子連れで2次会まで参加していた(爆)。
しかも2次会の帰り道、電車通りと正反対の方向に相当歩き、
あわや100m道路、というところまできていた。
それはおいといて・・なのだが、
練習会を聴いてきていろいろ考えることがあった。
というのは、このごろいただく講評やらとも関係することなのだが・・。
自分がある方々に演奏を聴いていただくとする。
コンペやステップの講評なら時間もないし、楽譜をみながらの指摘でもないので
「多声の扱いにもっと気をつけましょう」
「音色をもっと考えましょう」
的な、全体的なコメントになる。
これをいただくと、最初のうちは慣れないので
「ああ、自分は多声が下手なんだ」
「音色に乏しいんだ」
と思うのだが、では実際どうしようかという具体案は思いつかない。
これが、慣れてくると(ずうずうしくなるともいうが)
同じことを書かれたとしても
「ああ、あの場所か」とか
「このタッチが問題になってしまったな」とか
およその検討(とんちんかんなこともあるかもしれないが)をつける。
講評はこれで仕方ないと思う。実際、審査員にはコンテスタントを向上させる義務もなにもないのだから。
ただ、レッスンの場合。
私は幸いそんな先生にはめぐりあったことはないけれど、
「ぜんっぜんダメ!」「なんにもわかってない」
みたいなことをおっしゃるかたもマレにはいらっしゃるときく。
これはこれで、長期間のレッスンの中では愛のムチなのかもしれないが、
いわれたほうは、なにが全然だめなんだか、もう音楽なんかやめろということなんだかわけがわからない。
やはり、忍耐と言語化は指導に必須だと思う。
・・・というのは、ある国際的指揮者の公開レッスンをみていた時のこと。
某中高校のオーケストラを指導されていたのだが、
聴いているこちらはたしかに「よく弾いてる。練習してる」と思う一方で、
「なんだかまとまらない」とか「なんだか迫力に欠ける」と思う。
これが、その指揮者の手にかかると「なんだか・・」が具体的に短時間にパッパと整理・指摘されていく。
「まず、コントラバスですが、・・・」
「次に、ファーストバイオリンですが、・・」
と低音を高音をしっかりさせ、加えてどんどん低音と連動する打楽器、
高音と連動する管楽器と調えていく。
この時、私思いました。
「どことなく・・」「なんとなく・・」「全体に・・」
と言葉がマクロになればなるほど、シロート度も上昇するのだ、と。
それは、長年の修行と天分でもって指導も具体的になるわけではあるのだが、
指導する立場であろうとなかろうと、
「具体的かつ的確な表現」というものを身につけるべく努力することは、
自分が演奏する上でも決して損はないと思う。
それは別に、他人や自分に対しての「アラ探し」とは違う。
音楽としてどう表現していくか、という目的に気持ちが向かっていれば、
自然に生じるものではなかろうか?
ただ、それは待っていても身に付くものではないので、
自分も常に練習やステージ経験を積み、優れた指導者にレッスンしてもらうことが肝要と思う。
今日はほんとうは行く予定ではなかった。
上の子がたまたま練習会場の近くで映画を見るというので、ふらっと寄ってみた・・
つもりだったが、気付けば子連れで2次会まで参加していた(爆)。
しかも2次会の帰り道、電車通りと正反対の方向に相当歩き、
あわや100m道路、というところまできていた。
それはおいといて・・なのだが、
練習会を聴いてきていろいろ考えることがあった。
というのは、このごろいただく講評やらとも関係することなのだが・・。
自分がある方々に演奏を聴いていただくとする。
コンペやステップの講評なら時間もないし、楽譜をみながらの指摘でもないので
「多声の扱いにもっと気をつけましょう」
「音色をもっと考えましょう」
的な、全体的なコメントになる。
これをいただくと、最初のうちは慣れないので
「ああ、自分は多声が下手なんだ」
「音色に乏しいんだ」
と思うのだが、では実際どうしようかという具体案は思いつかない。
これが、慣れてくると(ずうずうしくなるともいうが)
同じことを書かれたとしても
「ああ、あの場所か」とか
「このタッチが問題になってしまったな」とか
およその検討(とんちんかんなこともあるかもしれないが)をつける。
講評はこれで仕方ないと思う。実際、審査員にはコンテスタントを向上させる義務もなにもないのだから。
ただ、レッスンの場合。
私は幸いそんな先生にはめぐりあったことはないけれど、
「ぜんっぜんダメ!」「なんにもわかってない」
みたいなことをおっしゃるかたもマレにはいらっしゃるときく。
これはこれで、長期間のレッスンの中では愛のムチなのかもしれないが、
いわれたほうは、なにが全然だめなんだか、もう音楽なんかやめろということなんだかわけがわからない。
やはり、忍耐と言語化は指導に必須だと思う。
・・・というのは、ある国際的指揮者の公開レッスンをみていた時のこと。
某中高校のオーケストラを指導されていたのだが、
聴いているこちらはたしかに「よく弾いてる。練習してる」と思う一方で、
「なんだかまとまらない」とか「なんだか迫力に欠ける」と思う。
これが、その指揮者の手にかかると「なんだか・・」が具体的に短時間にパッパと整理・指摘されていく。
「まず、コントラバスですが、・・・」
「次に、ファーストバイオリンですが、・・」
と低音を高音をしっかりさせ、加えてどんどん低音と連動する打楽器、
高音と連動する管楽器と調えていく。
この時、私思いました。
「どことなく・・」「なんとなく・・」「全体に・・」
と言葉がマクロになればなるほど、シロート度も上昇するのだ、と。
それは、長年の修行と天分でもって指導も具体的になるわけではあるのだが、
指導する立場であろうとなかろうと、
「具体的かつ的確な表現」というものを身につけるべく努力することは、
自分が演奏する上でも決して損はないと思う。
それは別に、他人や自分に対しての「アラ探し」とは違う。
音楽としてどう表現していくか、という目的に気持ちが向かっていれば、
自然に生じるものではなかろうか?
ただ、それは待っていても身に付くものではないので、
自分も常に練習やステージ経験を積み、優れた指導者にレッスンしてもらうことが肝要と思う。