夏休みになって、毎日毎日子供たちの喧騒の中で、私も小爆発大爆発を頻発し、
6日目にして「夏休み、はよ終わってくれんか・・・」の気分だ。
こういう時ピアノ室にこもっても、どちらかが入ってきてケンカの報告やらになるので、しかたなく珍しく本に逃避した。
愛読書「吉田秀和作曲家論集 4 シューマン」
今回興味をひかれた部分を書き出してみる(長くてすみません)。
<ポリー二/交響的練習曲>の章から。
ポリー二の演奏について絶賛しているのだが、それとは別の部分(ポゴレリチの演奏について)を・・・
「ポゴレリッチのは、出だしの主題からして、すでにすごい演奏だった。聴こえるか聴こえないか、すれすれのかすかな音と、それに劣らないくらい衝撃的で、常識外れの遅いテンポで、あの嬰ハ短調の和音が上から下に下ってくるのを聴いたとき、私は思わず、息を飲んだ。これは、音楽というより、厚い黒幕にすっぽり覆われた音楽の棺を肩にして歩き去ってゆく葬送の行進を、目の当たりにするような心地がした。そのあとも----もちろん、いろいろな対照や変化は数多くありはしたけれど-----結局、音楽を聴くより、音楽の亡霊が歩いてゆくのを見ているような気持ちは、最後まで、つきまとっていたのだった。葬送行進曲としての『交響的練習曲』なんて発想は、私にとってばかりでなく、この曲の演奏史上でも、破天荒のことではなかったろうか。
この主題の最初の4小節は----調性こそ嬰ハ短調から別の短調に移されているけど-----マーラーの『大地の歌』の第1曲《大地の苦難についての酒の歌》でリフレインとなって何回も繰り返される<人生は暗く、死は暗い>のモティーフとぴったり重なっているので、私など、どちらの曲を聴いても、もう一方を思い出さずにいるのが困難なくらいだ。ポゴレリッチが、そういう連想から、こういう演奏法を考えついたどうかは知らないが・・・・・・。」
さっそく、マーラーの『大地の歌』を聴いてみた。
「ド♯・ソ♯・ミ・ド♯・ラ」(嬰ハ短調のままで表記)まではまったく同じなのに、こちらは世紀末ななんとも絶望的な響きだ。
『交響的練習曲』の方は私はポリーニ命なので、それしかほぼ聴いたことがないのだが、
印象としては短調にも関わらず、冒頭の和音は「輝きを持って冴え渡るよう」に感じている。
同じ音列で、ここまで世界が変わるとは思ってもみなかった。
しかし、ポゴレリッチは「葬送行進曲」のように弾いているという。
・・・・・なんとなく想像はつくのだが、誰がこの冒頭を弾いてみて「葬送」の可能性を感じるだろうか?
そのように弾くことが可能でありまたマーラーがそのように作曲しているということは、この下降する和音にデモーニッシュなものがひそんでいるということだ。
専門的に分析すればいろんな意見も出てくるのだろうけど、
まずは、「楽譜からひきだされる可能性」について柔軟でありたいと思う。
6日目にして「夏休み、はよ終わってくれんか・・・」の気分だ。
こういう時ピアノ室にこもっても、どちらかが入ってきてケンカの報告やらになるので、しかたなく珍しく本に逃避した。
愛読書「吉田秀和作曲家論集 4 シューマン」
今回興味をひかれた部分を書き出してみる(長くてすみません)。
<ポリー二/交響的練習曲>の章から。
ポリー二の演奏について絶賛しているのだが、それとは別の部分(ポゴレリチの演奏について)を・・・
「ポゴレリッチのは、出だしの主題からして、すでにすごい演奏だった。聴こえるか聴こえないか、すれすれのかすかな音と、それに劣らないくらい衝撃的で、常識外れの遅いテンポで、あの嬰ハ短調の和音が上から下に下ってくるのを聴いたとき、私は思わず、息を飲んだ。これは、音楽というより、厚い黒幕にすっぽり覆われた音楽の棺を肩にして歩き去ってゆく葬送の行進を、目の当たりにするような心地がした。そのあとも----もちろん、いろいろな対照や変化は数多くありはしたけれど-----結局、音楽を聴くより、音楽の亡霊が歩いてゆくのを見ているような気持ちは、最後まで、つきまとっていたのだった。葬送行進曲としての『交響的練習曲』なんて発想は、私にとってばかりでなく、この曲の演奏史上でも、破天荒のことではなかったろうか。
この主題の最初の4小節は----調性こそ嬰ハ短調から別の短調に移されているけど-----マーラーの『大地の歌』の第1曲《大地の苦難についての酒の歌》でリフレインとなって何回も繰り返される<人生は暗く、死は暗い>のモティーフとぴったり重なっているので、私など、どちらの曲を聴いても、もう一方を思い出さずにいるのが困難なくらいだ。ポゴレリッチが、そういう連想から、こういう演奏法を考えついたどうかは知らないが・・・・・・。」
さっそく、マーラーの『大地の歌』を聴いてみた。
「ド♯・ソ♯・ミ・ド♯・ラ」(嬰ハ短調のままで表記)まではまったく同じなのに、こちらは世紀末ななんとも絶望的な響きだ。
『交響的練習曲』の方は私はポリーニ命なので、それしかほぼ聴いたことがないのだが、
印象としては短調にも関わらず、冒頭の和音は「輝きを持って冴え渡るよう」に感じている。
同じ音列で、ここまで世界が変わるとは思ってもみなかった。
しかし、ポゴレリッチは「葬送行進曲」のように弾いているという。
・・・・・なんとなく想像はつくのだが、誰がこの冒頭を弾いてみて「葬送」の可能性を感じるだろうか?
そのように弾くことが可能でありまたマーラーがそのように作曲しているということは、この下降する和音にデモーニッシュなものがひそんでいるということだ。
専門的に分析すればいろんな意見も出てくるのだろうけど、
まずは、「楽譜からひきだされる可能性」について柔軟でありたいと思う。