アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

元来日本人は人種差別をしない民族

2020年11月04日 | Weblog
 ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切だ)…当たり前。特にぃ…といえば語弊があるが、有色人種の一人として、黒人には親近感さえおぼえます。
 自分がはじめて黒人を見たときのことは忘れてしまっていますが、長男(当時11か月)が、初めて黒人を見たときの様子は、はっきり記憶しております。
 ボストンダウンタウンの「フォーサイスデンタルセンター(ハーバード大学の歯科部門)」で、歯科の順番を待っていました。清掃員が床を拭きながらやってきました。60歳前後と思われる小柄な黒人男性で、漆黒の肌、大きな丸い目、失礼ながら団子っ鼻…。見たことはありませんが、クンタ・キンテのおじいさんはこのような人だったんだろうと思いました。(映画のクンタ・キンテは鼻筋が通ってましたね…)
 その男性が、「おや?東洋人の乳幼児がいたな。愛想してあげよう」と思ったらしく、長男の顔をのぞき込んで、「おどけた顔」をしてくれたのです。
 長男は一瞬にして金縛り状態。目は、黒人男性の大目玉より見開いておりました。呼吸ですか?もちろん息をすることなど出来ません。その反応に、少々がっかりした男性は、職務に戻っていきました。我に返った長男は、その後ろ姿を伸び上がって見続けておりました。
 乳幼児のリアクションですから、「人種差別」の要素は皆無。純粋にびっくりしたのでした。
 初めて日本へやってきた黒人を見た日本人の反応は、どうだったかなあ?おそらく初めて日本へやってきた黒人は、イエズス会イタリア人宣教師ヴァリニャーノの従者兼護衛だったと思われます。日本名は、「弥助」。なぬ?「弥助ならだれでも知ってる」って?
 そうだよね。弥助は、NHK大河ドラマに何度か出演していますからね。「信長 KING OF ZIPANGU(1992)」、「秀吉(1996)」、「軍師官兵衛(2014)」「麒麟がくる(2020)」。
 「弥助が京都に来たときは、弥助を一目見ようと、大勢の人出で大騒ぎになった(「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」著者は、ロクリー・トーマス:日本大学法学部准教授)  
 さて、弥助見物(そのときは、弥助という名前ではなかったでしょうが)の人々は、黒人をどう思ったか?「差別してやろう」「迫害してやろう」と思ったか?まず、それはなかった。むしろ畏敬の念さえもった。
 織田信長は、弥助の評判を聞きつけ、小姓として破格の待遇で召し抱えました(天正9年。天正年間は、1573年~1592年)。信長は、人種差別の逆のことをしていますね。弥助が信長に仕えて1年3か月後、本能寺の変。弥助は、獅子奮迅の戦いぶり。本能寺から、信長の嫡男の信忠がいた二条御所へ。二条御所でも戦ったが、信忠が切腹したので、弥助は明智軍に投降。光秀は弥助を殺さなかった。ロクリー・トーマスさんは、「遠くからやってきて知らない国で殺されるのは忍びないと考え、殺さなかった…光秀の人間性が表れている」と。光秀って、人種差別をしないどころか「温情」の持ち主だったんですね。
 日本人は、本来黒人を差別しない複数民族である!
 なぬ?「弥助はその後どうなったか」って?
 その後の弥助は…「イエズス会宣教師の護衛を続けたという説」「船員になったという説」などがあるようです。立派に生きたことは間違いないようです。

 4週間にもわたる入院から帰って参りました。このたびの入院は、「ステロイド剤の服用を注射(アクティムラ)に切り替えるため」のものでした。しかし、その前段…乱高下する血糖値の調整だけで4週間…。でも、とりあえずは、生きて帰れたので良かったです。