小1の算数の問題。「…それぞれ のこりは なんこ…」。
担任の先生が、「はい、みんな声を合わせて読んでください」。
子ども達が読みました…
「…それぞれの こりは なんこ…」。
担任の先生、苦笑いし、「もう一度読んでください」。
子ども達は1度目よりも大きな声で…
「…それぞれの こりは なんこ…」。
担任の先生が叫びました。怒気すら帯びておりました。
「『こり』ってなにっ!」
この「こり問題」が、なぜ勃発したか?それは、「算数の問題を学級で声を合わせて読んだ」からです。
国語であれば、「声を合わせての一斉読み」は、必要な場合があります。
算数の問題文の場合、短い文章ですから、一斉に読ませると、なにも考えずに、「こりはなんこ」と惰性で読んでしまう。意味がないどころか、式も答えも出やしない。
「答え:こりは5個」…ありえない。
算数の問題文は、個人に読み取らせなければなりません。
一斉に声を合わせて読ませるのが、「思考が伴わず、惰性に流されるので意味がないというのであれば、国語だって同じじゃないか?」って?
おっ、反論が来ましたね。国語とは違います。
国語の一斉読みは、「学級全体の読み取りを均質に近づける」という大きな意味があるのです。
35人の児童がいたら、読解力の差が35通りあるわけです。漢字が読めず、個別の読みでは漢字を飛ばして読み進める子でも、一斉に読む場合は、自分が読めない漢字の読みが耳に入ってきます。それが何度か続くうちに、読めるようになります。
社会や理科はどうなんだって?国語以外の教科は、「一斉読み」は、なじまないです。意味がないから、時間の無駄。
なんの疑問も持たずに「はい、みんなで声を合わせて読みましょう」という先生、悪気がないのは分かりますがぁ…ね。
あとさあ、黒板の右端に、「九月二七日 金曜日」と書いてあったりします。「朝の会」で、一斉読みさせる先生が居られるんだよねー。
「さあ、みんなで声を合わせて読みましょう!」「はい、もう一度」「もう一回」
あ、あのね、認知症の検査じゃないんだから!何度も日付の確認させないでよ!
担任の先生が、「はい、みんな声を合わせて読んでください」。
子ども達が読みました…
「…それぞれの こりは なんこ…」。
担任の先生、苦笑いし、「もう一度読んでください」。
子ども達は1度目よりも大きな声で…
「…それぞれの こりは なんこ…」。
担任の先生が叫びました。怒気すら帯びておりました。
「『こり』ってなにっ!」
この「こり問題」が、なぜ勃発したか?それは、「算数の問題を学級で声を合わせて読んだ」からです。
国語であれば、「声を合わせての一斉読み」は、必要な場合があります。
算数の問題文の場合、短い文章ですから、一斉に読ませると、なにも考えずに、「こりはなんこ」と惰性で読んでしまう。意味がないどころか、式も答えも出やしない。
「答え:こりは5個」…ありえない。
算数の問題文は、個人に読み取らせなければなりません。
一斉に声を合わせて読ませるのが、「思考が伴わず、惰性に流されるので意味がないというのであれば、国語だって同じじゃないか?」って?
おっ、反論が来ましたね。国語とは違います。
国語の一斉読みは、「学級全体の読み取りを均質に近づける」という大きな意味があるのです。
35人の児童がいたら、読解力の差が35通りあるわけです。漢字が読めず、個別の読みでは漢字を飛ばして読み進める子でも、一斉に読む場合は、自分が読めない漢字の読みが耳に入ってきます。それが何度か続くうちに、読めるようになります。
社会や理科はどうなんだって?国語以外の教科は、「一斉読み」は、なじまないです。意味がないから、時間の無駄。
なんの疑問も持たずに「はい、みんなで声を合わせて読みましょう」という先生、悪気がないのは分かりますがぁ…ね。
あとさあ、黒板の右端に、「九月二七日 金曜日」と書いてあったりします。「朝の会」で、一斉読みさせる先生が居られるんだよねー。
「さあ、みんなで声を合わせて読みましょう!」「はい、もう一度」「もう一回」
あ、あのね、認知症の検査じゃないんだから!何度も日付の確認させないでよ!