ピアノを初めて習う生徒さんに、何の音、何番の指から教えていらっしゃいますか?
多くの先生は、
「まん中のド」「1の指」
だと思います。
そして、右手の「レ」は2の指、「ミ」は3の指・・
左手は「まん中のド」から始める場合と、「1オクターブ下のド」から始めるパターンに分かれると思います。
「まんなかのド」なら「ド」は1の指、「シ」は2の指・・
「1オクターブ下のド」でしたら、「ド」は5の指、「レ」は4の指・・
これを『固定5指(こていごし)ポジション』というのはご存知でしょうか?
この方法で教えていらっしゃる先生は、手を固定させて弾く「固定5指メソッド」で教えていらっしゃいます。
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ご自分がどんなメソッドで教えているか、なぜそのメソッドを選んで教えているか、把握されていますか?
このメソッドで教える利点はなんでしょう?
読んだとおりに指を動かすと曲になる、だと思います。
保護者の方にも進み具合がわかりやすいです。
では、ピアノは指だけで弾く楽器かを考えてみて下さい。
固定5指で、腕全体を使ってピアノを弾く基本の動きを習得することをいつ行いますか。
鍵盤を指でひとつひとつ押すだけでは音楽にはならないことは、先生方は皆さんご存知です。
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指で鍵盤を押さえることが習慣になってしまった生徒さんに、腕の重さを使い音を鳴らすこと、手首の横の動きを使って重さを移動させながらレガートで弾くこと、手首の縦の動きで呼吸をしフレーズのわかる演奏をすることを、いつ教えますか?
固定5指で広い音域の曲を演奏することを、どのくらい進んだら行いますか。
調号が3~4個の黒鍵を使った曲をどのくらい進んだら試しますか?
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あれこれ書きましたが、6年前まで私自身が自分がどんなメソッドで教えているかなど考えたこともありませんでした。
まん中のドから教える、それはその音から読む練習をするから。
1の指から弾き始める、ドレミファソと当てはめたらそれは当然のことだから。
そのように教えてきました。
その結果、音が鳴らずスカスカ、パサパサ。さらに、レガートが上手く弾けない生徒が少なくないという結果を招きました。それを改善するために、1の指でドを弾く前に、黒鍵を234の指で弾き、音の動きと腕の向きを合わせることを教えはしました。
しかし、教本がこれを活かすつくりにはなっていなく、解決策を見つけられずにいました。
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それが6年前に、ロシアンメソッドの教本に出会いました。
このメソッドのことは知ってはいました。
ノンレガートで3の指から始める。知っていたのはそれだけでした。
そのメリットまではわかっていませんでした。
5年前から実際にその教本を使いレッスンを始めました。
飛躍的に生徒さんたちが上達したとは言えないかもしれませんが、少なくとも指だけで音を押さえる生徒さんはいません。
少し前に、4月にあった発表会でお手伝いされた教室のスタッフの方から、
「先生の生徒さん、全員手の使い方が綺麗でした。先生が使っている本がどんな本かやっと分かりました。ほかの生徒さんと全然違う」
と言われました。
使っているのは「不思議な音の国」です。
導入はこれ一択です。
楽器店で取り寄せ不可で、都内ですとカワイ表参道店でしか取り扱っておりません。
なので、スタッフの方も教本の中身をじっくりご覧になったことはなく、謎だらけの本でした。
生徒さんの演奏を聴いて、私はもっと音が鳴っても良いはずだと不満でした。このメソッドで教え始めて5年目を迎え、最近やっとコツがつかめてきた気がします。
音の発音やニュアンスを伝えることは当たり前のレッスンになっています。
私は先生方が指導法についてご自身でよく勉強されていることを知っています。
ただ気になるのは「NATO」になってはいないかということ。
海外で日本人は「NATO」と言われているらしいですが、「No Action ,Talk Only」のことだそうです。
話は聞くけれど、行動には起こさない。
これは日本人の気質です。
やってる感だけあっても意味はないです。
なぜこうなるかは、日本人は失敗を咎めるからだそうです。
なので、失敗しないこと、無難なこと、手慣れたことを行い、試行錯誤して成果を上げようとしなくなる。
何はともあれ、やってみること。
挑戦し、失敗を重ね、成功の糸口を見つけること、と最近読みました。
その通りだなぁ、と思います。
私の世代はまだ失敗から学ぶ機会があったように思いますが、誰も傷つかない、傷つけない教育が必要以上に行われた時期があると思います。
守られたまま育ってしまった世代が、どんどん社会で活躍する年齢になっていると思います。
円安の影響で演奏会もこれまでとは変化して行くかもしれません。
昔に戻って行くかもしれません。
本物に触れる機会が失われることがないことを祈ります。