アマゾンわんわん日記 2018

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日本人入植90周年

2019年09月09日 | ブラジル雑記

マナウスでは今週日曜日、日本人移住90周年記念式が行われます。

アマゾンの日本人移民というと、過酷な自然と対峙してきたというイメージがありますが、私自身はマナウスに住んでまだ15年。

本当に話の上でしかアマゾン移住の過酷さを知りません。

それでも 知らないよりは知っていた方がましかな?

というわけで、ちょっと昔のことをさかのぼってみることにしました。

     *     *     *     *     *

アマゾナス州に最初の日本人が入植したのは、1929年10月サントス丸で移住してきた9家族32名 単身青年17名、計49名でした。

彼らはマナウス市から300kmほど下流のマウエス市に入植し、「ガラナ」の栽培に従事しました。

1929年というこの年は 世界大恐慌が起こった年で、その混乱により移住事業も促進されることにもなったようです。

その後、1930年国士舘大学の分校として 移住地においてリーダーとして活躍できる人材を育てるべき「日本高等拓殖学校」が設立され、その学生移住者が中心となり マナウスから下流のパリチンス市郊外にヴィラ・アマゾニアを建設。

多くの日本人移住者を迎え、「ジュート(インド麻)」の栽培に携わりました。

 

栽培過程の中で たった2本発見された 背の高いジュートから採れた種が、アマゾンのジュート景気を生み出しました。

収穫したジュートを抱えて。

戦後はマナウス近郊に移住地が設けられることとなり、マナウス近郊でもエフィジェニオ・サーレス移住地、ベラビスタ移住地などに次々に日本からの移住者が送り込まれました。

現在でこそマナウス市のセントロから幹線道路で結ばれ、通常時なら1時間もかからずに行き来できるようになったこれらの移住地ですが、移住者を受け入れた当時は全くの原生林の中。

移住した人たちは 大きな木を切り倒し、切り株を掘り返し、苦労して土地を切り開きました。

場所によっては 土地が悪く、全く作物らしいものができずに 多くの人たちが脱耕していった土地もあります。

その中でも踏みとどまり 仲間と助け合いながら生きてきた人たちが、現在 様々な場所で活躍し 日本の文化を大切に次の世代に伝えていっているのです。

 エフィジェニオ・サーレス移住地の盆踊り

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現在 マナウスには多くの日系企業が進出し、サンパウロをのぞいてブラジルのどの都市よりも日本人・日系人の比率が多いのではないかと思います。

日本人子弟のための日本人学校の他、ブラジル人、日系人、日本人等々受け入れる日系団体の運営する幼稚園、学校(ブラジルの教育制度による)もあります。

「出稼ぎ」で日本に行く人の数は一時期よりも少なくなったものの、日本と行き来をする人は多く、またSNSの発達により リアルタイムの日本を常に身近において生活することができます。

そういう意味で、今回の90周年という節目の年は、10年前、20年前とはまた違った形の「日本人移住地マナウス」となっていることを 感じることができる時代なのかもしれません。

コメント
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