橋本屋吉次郎電子日誌

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戸部蛙(とべかえる)

2021-03-06 | お城巡り(その他)
名古屋市南部にある富部神社に参拝しました。


富部神社
愛知県名古屋市南区呼続4-13-38


由来


鳥居前には3台分の無料駐車場があります。


境内

狛犬




拝殿


参拝した後、社務所に寄って、

郷土玩具の「戸部蛙」を購入しました。




かつて、この近くにあった戸部城に戸部新左衛門という乱暴な武将がいました。
なにしろ、前を横切るものは何でも無礼打ちにしていたそうです。
ある日、1匹のカエルが横切りました。
誰もが斬られると思っいましたが、新左衛門はカエルの跳ぶ速さに心を奪われ、手打ちにしませんでした。
この言い伝えから、「命拾いをして無事にカエル」といった願いを込め、瓦職人が粘土でカエルを作り、売ったのが始まりとされています。


鳥居を入ってすぐ右にある戸部新左衛門墓地移転記念碑


昭和4年に


17代目の御子孫が建てられたもののようです。


富部神社本殿重要文化財指定記念の立派な碑の隣に、


小さな3つの碑が並んでいました。


真ん中に戸部新左衛門の墓


右側には句碑
「ほととぎす 泣いてすぐるや 戸部の城」
ちなみに、作者の小林橘川とは元名古屋市長だそうです。


左には戸部城に関して漢文で記されています。


これらの碑は平成28年に移転されたものですが、それ以前に設置されていた場所も本来の城跡とは違っており、城の遺構はまったく残されていません。

戸部新左衛門が歴史の表舞台に上がったことがあります。
1549(天文18)年、今川義元は織田信広(信長の兄)の守る三河安祥城を攻め、信広を生け捕りにしました。
その際、今川の家臣でもあった戸部新左衛門は和睦成立につとめ、織田家に人質になっていた松平竹千代(後の徳川家康)との信広の人質交換を実現させたのです。

おそらく、勇猛なだけでなく政治力も兼ね添えた武将だったのでしょうね。
それに比べ、織田信長は、まだ若輩だったのでまともに戦っては勝ち目がないと考え、一計を案じます。
戸部新左衛門が織田に寝返っているような偽の手紙を書き、商人に扮した家来に駿河へ持って行かせます。
これを見た義元は怒り、新左衛門を切腹させてしまいました。

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中島砦

2021-03-03 | お城巡り(その他)
永禄3年5月19日(1560年6月12日)、丹下砦に寄った織田信長は、善照寺砦へ移動。今川軍の先陣を確認したのち、多くの旗指物を掲げ、大軍がいるかのように見せつけた後、2,000の兵と共に善照寺砦を発ち、中島砦に移動を開始しました。

これに倣い、私も善照寺砦を後にして、徒歩にて中島砦跡に向かいました。


途中、旧東海道を通りました。
街道の名残を残す建物や昭和の香りがする商店があり見ていて楽しいのですが、新しくできた空き地も点在し、寂しい気持ちにならざるを得ませんでした。


やがて、扇川に突き当たります。


中島砦は扇川とその支流の分岐点あたりにありました。


とある民家の裏に


中島砦
所在地: 愛知県名古屋市緑区鳴海町下中


中島砦は私有地にありますが、所有者のご厚意により自由に見学できます。
よって、感謝の気持ちをもって、ご迷惑がかからないように注意して訪問しましょう。


遺構はとくになく、塚が残されている程度です。


その中に中島城祉の碑が建っていました。


おそらく、この辺りに砦があったのでしょう。


名鉄鳴海駅に戻ってきました。




(鳴海駅)→鳴海城→丹下砦→(成海神社)→善照寺砦→中島砦→(鳴海駅)と徒歩でまわりました。
5.7km、1時間39分の散策でした。

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善照寺砦

2021-02-28 | お城巡り(その他)
丹下砦から徒歩にて、成海神社に寄ったのち、善照寺砦に向かいました。


鳴海小学校
最初に訪れた天神社すなわち鳴海城址の東になります。


小学校東の道路は、鳴海城と善照寺砦の堀切の跡といわれています。


善照寺砦跡に到着
現在は公園になっていますが、


その名は残っています。
砦公園
所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町砦3


現地案内板


どこの公園でも見られる遊具の中に、


物見櫓風の器具があるのがおもしろいです。

もちろん、登って南側


北側を眺めてみました。



鳴海絞りの開祖三浦之碑
ここ鳴海は、隣の有松とともに絞りの生産で有名です。
一説によれば、医師三浦玄忠の妻によって豊後絞りの技法が伝えられたのが発祥と言われています。
もっとも、信長の時代よりも後の話です。

西側から見ると何気ない公園なのですが、南東側は結構急な斜面になっており、




公園の一段下に広場があり、


さらにその下にも、


そのまた下にも兵を配置するような場所がありました。


当時のそのままの形かどうかは疑わしいですが・・・

このあとは中島砦へと歩いて移動しました。

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丹下砦

2021-02-25 | お城巡り(その他)
今川方の鳴海城を取り囲む形で、織田軍は丹下砦、善照寺砦、中島砦を築きました。
鳴海城の後、この3つの砦を徒歩で訪れてみました。

丹下砦は鳴海城の400m程北にありました。


移動途中に見つけた丹下町常夜灯
鳴海は東海道の宿場でもあり、今回訪れた城跡以外にもいろいろな史蹟があるようです。

信長公記によると桶狭間合戦の時、熱田神宮で戦勝祈願をした信長が最初に入った砦が丹下砦になっています。
光明禅寺の裏側が丹下砦といわれています。




寺の東にある民家のガレージに案内板が設置されていました。




砦はこのガレージではなく、物置の奥の高くなっているところにあったのではないでしょうか。


砦跡の西側に移動しました。
右は民家の塀で、遺構は見られませんが、高台になっていることがわかります。


さてこののち、徒歩にて善照寺砦、中島砦と桶狭間の合戦時における、信長の侵攻順に移動しました。

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鳴海城

2021-02-23 | お城巡り(その他)
前回、大高城と対峙する鷲津砦丸根砦と徒歩でまわりました。
今回は、鳴海城とこれをとり囲む丹下砦・善照寺砦・中島砦を周遊してみました。

この日、鳴海城近くのコインパーキングが満車であったため、名鉄鳴海駅南のコイン駐車場に駐めました。


鳴海駅北の旧東海道は、昭和の香りが残されており、それを見て楽しんでいるうちに鳴海城跡に到着しました。


天神社(あまつかみしゃ)
所在地: 名古屋市緑区鳴海町城





鳴海城は、天神社から道路を挟んで西にある鳴海城跡公園にかけて存在したといわれています。

天神社境内には史蹟碑や


案内板が設置されています。


こちらの碑に関しては、



文字が見づらくなっており何が書いてあるかわかりませんでした。
(文字かはっきり見えても読めたかどうかはわかりません。)

鳴海城は今川義元の家臣である岡部元信が城主を務めていた城で、今川氏の重要拠点になっていた城で、別名根古屋城(ねごやじょう)ともよばれました。
もともと、この地には成海神社が建っておりましたが、築城の際、400m程北の現在の位置に移動してもらっています。


枯れたご神木はそのあたりの移り変わりを見てきたのでしょうか。


天神社西側
道路を挟んで西にある城跡公園へ向かいます。


城郭風のコミュニティーセンター


金鯱まであります。


鳴海城跡公園



中は、ふつうの公園で遺構は残っていません。





ただ、周辺より高台となっているくらいです。
ひょっとして、堀切があったかもしれませんね。


南側のようす
当時は海に面した城で、満潮時には城のすぐ下まで潮に浸かったと伝えられています。

桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗れると、織田信長との交渉の結果、義元の首級と引き換えに岡部元信は城を明け渡します。
その後は佐久間信盛・信栄父子が城主を務めましたが、天正末期には廃城になったそうです。

公園の北にある東福院の門は、鳴海城の城門だったといわれています。


なお、鳴海城建設に伴い移転した成海神社にも足を伸ばしてみました。



現在でも、りっぱな境内でした。

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大高城

2021-02-20 | お城巡り(その他)
丸根砦から織田軍になったつもりで、大高城めざして進軍しました。
史実は、逆で大高城の松平元康に討ち取られちゃったのですが・・・


東海道新幹線・本線のガードを通り抜けます。


ほどなく、川に進路を塞がれてしまいました。
大高川です。


この川は大高城の堀の役目を果たしていました。
それにしても深い。


もちろん、現在は橋で簡単に渡ることができます。


川を越えたところにある津島社で、進路を西に変えさらに進みました。


りっぱな寺が見えてきました。


城跡は寺の裏に見える森のようです。


北側に回り、坂道を登ります。

大高城に到着






入口の両脇は腰曲輪があったようです。



本丸


本丸から見た鷲津砦


お寺の屋根の向こうには丸根砦が見えます。


本丸には一段高くなっているところがあります。
かつては建物があったのでしょうか。


現在は城山八幡社が置かれています。


本丸と二の丸をつなぐ土橋
土橋の両脇にはけっこう深い堀切がありますが、樹木が生い茂る遠目にはよくわかりません。


近付いて撮影したのですが、樹木の茂る堀切は撮影が難しいです。


二ノ丸


周囲は土塁に囲まれているように見えます。


南側の入口


城の北には城下町らしい細くて折れた通りがありました。


再び、JR大高駅に戻ってきました。


大高駅を出発して、徒歩で鷲津砦、丸根砦、大高城とめぐって、大高駅に戻ってきました。全行程5.1km、1時間40分でした。

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丸根砦

2021-02-17 | お城巡り(その他)
丸根砦は鷲津砦と同じく、桶狭間合戦時に今川方だった大高城を包囲していた織田方の砦のひとつです。守将は佐久間盛重でしたが、松平元康により攻め落とされました。

鷲津砦から、JR東海道線と平行の県道を南へ向かって進みます。


鷲津砦すぐ南にある、鷲頭山長寿寺
知多四国霊場第87番札所になっており、7年前に巡礼で訪れていました。


交差点名が「西丸根」ですから、目的地は近いと思われます。

建築業者の資材置き場の裏山が怪しい。砦跡でしょうか。


南に回ってみたら神明社の杜でした。


気を取り直して坂道を上がると、「丸根砦50m」の案内板発見。


丸根砦あとに到着。


森の中に入って


小さな丘を登ると


頂上付近は平らになっており、


りっぱな「戦殉難烈士之碑」が置かれていました。


さらに、少し離れたところに史跡碑もありました。


かつてはこんな感じだったようですが、遺跡はあまり残っていません。


鷲津砦同様、照葉樹林に取り囲まれています。


今でも大高城の森がよく見えます。




名古屋市内にありながら、こんな小さな砦の跡が残されていることに感謝しつつ、
いよいよ大高城に向けて進軍開始しました。

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鷲津砦

2021-02-14 | お城巡り(その他)
大高城はかつての尾張国と三河国の国境近くにあった城で、桶狭間合戦の時には今川方でした。
織田軍は鷲津砦と丸根砦を築いて、大高城の補給を遮断しますが、この大高城を救おうと今川義元が尾張にやってきたのが桶狭間合戦の発端になった訳です。

今回、大高城へ訪れるために下調べしたのですが、城跡には駐車場がなく、少し離れたJR大高駅東側のコインパーキングに駐めざるを得ないようです。
地図で見ると、大高駅は大高城,鷲津砦,丸根砦のほぼ中心にあり、さらに、この3箇所は徒歩で行ける距離にあるので、車をとめて散策を楽しむことにしました。


大高駅の東には、コイン駐車場が多くありました。


車から降りると小高い森が見えます。
これが鷲津砦です。


登り坂を登りながら、ふと思いつきました。
「今日は、GPSを使わずに勘を頼りに歩いてみよう。」
前もって位置関係は確認してあり、Google Mapにマークしてありますし、スマホももってきましたが・・・。
当時を忍ぶにはなんとなくこれを使わない方がよいように思えました。
目的地のだいたいの位置が頭に入っていたことと、現在でも小高く見晴らしの良いところにあるので、GPSなしで行けそうな気がしたのです。


鷲津砦150mの表示を見つけました。
やっぱり、この道で合っているようです。

しばらく坂を登ると、右手に小さな公園がありました。




この公園は、鷲津砦跡の一部のようです。


名古屋市内の住宅街であることを忘れてしまうような、照葉樹の森です。


史蹟碑


表忠碑



丘の上は、少し広くなっていました。
桶狭間合戦時の守将は織田秀敏,飯尾定宗そして息子の尚清でした。
松平元康(後の徳川家康)が大高城に兵糧を入れた後、今川方の朝比奈泰朝によって攻め落とされました。

堀切の跡





土塁のようにも見えますが、雨水が流れて自然にできたものでしょうか?

次は丸根砦でをめざして歩きます。
散策路としてちょうど良いみたいです。



鷲津砦西側の道は交通量が多く、静かな森の中から出ると、現実世界に舞い戻った感じを受けました。

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末森城

2020-06-07 | お城巡り(その他)
古渡城から、バイクで約15分、末森城へやってきました。

1548(天文17)年に織田信秀が築城し、古渡城から移りました。
実弟織田信光が守る守山城と合わせて三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えた東方防御線を構成するためのものであるようです。
城主に織田勘十郎信勝(通称信行、織田信長の実弟)をあて、信秀は1551(天文20)年にこの末森城で死去したといわれています。

なお、織田信勝は1556(弘治2)年、信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れていったんは和睦します。
1557(翌弘治3)年、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺されてしまいます。
「麒麟が来る」でもそうでしたが、ドラマでは2回目の謀反(の企て)だけしか紹介してないものが多いような気がします。
それによって、信長の冷淡なイメージがつくられているように思います。
1回目の謀反の際、母親や弟の家臣の懇願によって、一度は許しているのです。

信勝没後、末森城は放置され、いつしか廃城になりました。

末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43mの丘に、東西約200m、南北約160mの規模で築城された平山城です。


現在も主要通りである末盛通沿いにあり、都市公園にする計画もあるようです。


城山八幡宮
所在地: 名古屋市千種区城山町2丁目88番地

「こんもりとした丘の上に城跡があり、現在は神社となっている」よくあるシチュエーションですが、ここは地方の集落ではなく大都市の一等地なのです。


一の鳥居脇にある説明板


石段を上がると、空堀跡があります。


橋を渡って堀を越えると二の鳥居、さらに石段を登ると三の鳥居です。


三鳥居脇には土塁があります。
丘の上の土塁ですから展望を楽しむためのベンチが置かれていました・・・が、


草木が思いっきり茂っており何も見えません。


自家用車は「末盛通2」交差点をいったん北上し、西側から境内の駐車場に入ることができます。


名古屋市内には珍しく「警笛ならせ」の表示があります。
道幅細く、急坂、急カーブで見通しが悪いからですが、スピードさへ落としていれば初心者でも大丈夫でしょう。


駐車場
このあたりに本丸があったと思われます。




駐車場脇に末森城址碑がありました。


現地案内板


本丸跡に建てられた靖国神社遙拝鳥居


豊玉稲荷社




神門
駐車場と神門の間に三日月堀とよばれた堀跡があります。
肉眼で確認できるのですが、草木が生い茂り、カメラには上手く収めることができませんでした。


狛犬


拝殿
この城山八幡宮は、末森城に祀られた祠跡に付近にあった復数の神社を合祀しているそうです。


手水舎


神楽殿


末社


お市の方はここで生まれた?


連理木(れんりぼく)
アベマキの大木で、地上約3mの所から二幹に分かれ、6m程で再び合一して連理となり、そこから上にも枝を出しています。
連理木は一つの枝が他の枝とつらなり、木目が通じたもので、古来吉兆とされています。また、縁結び、良縁祈願、夫婦円満の御神木として信仰されています。


二の丸跡は古い建築物があるので、立ち入り禁止になっています。


フェンス越しに撮影
昭和塾堂といい、愛知県が1928(昭和3)年、青年向けの社会教育に資するために建設した建物です。
1943(昭和18)年には旧日本軍により接収され、戦時中には陸軍の東海軍司令部として使用されました。
戦後は、名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎などを経て、愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用されました。
現在は使われてないようですが、貴重な戦前の建築物ですので、是非とも保存していただきたいと思っています。


建物中央のドームの屋根は、城山八幡宮の木々より少し高く、覚王山通より見えるのでかねてから知っていました。
しかし、日泰寺の付属施設かなとずっと思っていました。


養心堂
昭和塾堂付属の武道場




所要時間:35分

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古渡城

2020-06-04 | お城巡り(その他)
ようやく、非常事態宣言も解除され、ツーリングもお城めぐりもできるようになりました。
ただ、5月中は都道府県をまたぐ移動は避けるとようにとのことですので、目的地は愛知県内としました。



真宗大谷派名古屋別院(東別院)
所在地: 愛知県名古屋市中区橘2丁目8-55
開門~閉門時間: 6:00~16:30(10月~4月),6:00~17:30(5月~9月)


名古屋の中心部にありながら、広大な参拝者用駐車場をいくつも持っています。
しかも無料!


山門入ってすぐ左手にある石碑
1533(天文2)年、織田信秀(織田信長の父)は、那古野城を奪って今川氏豊を追放します。
その翌年の1534(天文3)年、今川家や岡崎城主・松平清康からの反撃に備えて、築城したのが古渡城です。


吉法師(信長)に那古野城を譲ると、信秀は勝幡城から移って古渡城を本拠としています。
1548(天文17)年に、信秀が美濃へ出陣しますが、その隙きを突いて尾張下四郡の守護代・織田信友の家臣である坂井大膳らが不在を突いて古渡城を攻撃しました。
城下町は消失するも、古渡城は落ちなかったようです。
しかし、再起は行わず、織田信秀は末森城を築くと、新たな居城としたため、古渡城はわずか14年で廃城となったようです。

1690(元禄3)年、尾張藩2代藩主・徳川光友は真宗大谷派名古屋別院建設のために、古渡城跡を寄進し、現在に至ります。

5年前にここを訪問していますが、そのときは古渡城の石碑を見落とし、ここが城跡であることにも気づきませんでした。
まだまだですねぇ。


もっとも、古渡城の遺構はほとんど残っていませんでした。
あえていうなら、境内にころがっている四角い石は城に使われていたものでしょうか。


これは井戸の跡でしょうか。

1945(昭和20)年、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失したしまったので、戦後再建されたものが多いです。


鐘楼


納骨堂


お東幼稚園


本堂


参拝接待所
お経、法事、永代経、納骨などの受付を行っております。


太鼓楼
それっぽく見えますが、古渡城の遺構ではありません。
参詣者と時刻案内の太鼓が置かれていましたが、現在では使用されていません。


対面所


名古屋教務所
真宗大谷派宗務所の地方宗務事務所で寺院・門徒関係の教化事業・宗務を行っています。


中門


東別院ホール


東にある名古屋テレビは、東別院の土地を分けてもらって建っていますが、古渡城の遺構はわかりませんでした。


名古屋テレビの北にある下茶屋公園
所在地:愛知県名古屋市中区橘2-9




もともとは、東別院御殿の後庭だったそうです。


この池は古渡城の堀の跡だという説がありますが、はたして・・・


この角度で見ると、堀っぽくも見えます。

公園内に転がっている石もどう見ても天然石ではなく、古渡城で使われたものかも





櫓台でしょうか。

所要時間:約40分

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