橋本屋吉次郎電子日誌

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勝幡城(しょばたじょう)

2011-05-28 | お城巡り(その他)

勝幡城(しょばたじょう)は、織田信長の祖父にあたる織田弾正忠信定によって永正年間(1504~1521)に築かれたと伝えられています。

1534年生まれの織田信長は那古野城で生まれたとされています。
しかし、信長の父である織田信秀が那古野城を奪取したのは、1538年という説もあり、勝幡城が信長誕生の地であるともいわれています。

1555年(弘治元年)、信長は主家の織田大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、それにより次第に衰退して、勝幡城は廃城となりました。

勝幡城は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)に位置しており、規模・構造については、「東西四十八間、南北七十間、大手口東西二重堀、四方に惣堀有、惣構の外南北百二十間、東西百十四間(『尾陽雑記』)」とかなり立派なものであったそうです。

二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定されます。
もっとも、周りの河川はかなり改修が進んでいるので同時の様子を想像するのは難しいと思います。

なお、この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていましたが、縁起が悪いという理由で「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれています。

現在の勝幡城跡


遺稿は何もなく、記念碑と説明板があるのみです。

現地説明板にて補足説明をしていただきます。

記念碑表

記念碑裏

横から・・・・・・・・落城の危機!


信長生誕を育む会(はたして、この日本語はどうなんどんだろうか)のURLは下記に変更されているようです。
http://www.ooutsuke.org/

城跡の西側に位置する三宅側にかかる嫁振橋です。


橋のたもとには、在りし日の勝幡城の復元図がはめ込められていました。


勝幡城跡
稲沢市平和町城之内

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蜂須賀城

2011-05-04 | お城巡り(その他)

豊臣秀吉の重臣であった蜂須賀小六正勝および、その息子で阿波藩祖の家政の出生の地を訪ねてみました。

現地へ行く前に、あま市美和歴史民俗資料館に寄って予習を試みました。

文化・風俗についてはけっこう詳しく展示されておりましたが、歴史についてはさほどではありませんでした。
現在は合併し、あま市となった旧美和町は、蜂須賀小六正勝の他、豊臣秀次・福島正則・溝口秀勝など多くの武将を輩出しているので、もう少しPRに力を入れてもよいかと思います。

蜂須賀城跡は、歴史博物館からカブで5分ほどの蓮華寺に隣接してあります。

もっとも、現在残されているのは蜂須賀小六正勝公顕彰碑


と城跡を示す碑だけです。

蓮華寺は蜂須賀家の菩提寺でもあるので寄ってみました。
弘仁9年(818年)、弘法大師が熱田神宮に参籠して一千日の護摩を修めた時、神託をうけて創建した名刹だそうです。

小六正勝の子で阿波藩祖である蜂須賀家政はこの地で産まれたと言われています。
その家政寄進と伝える山門


本堂。本尊は阿弥陀如来。


蜂須賀小六正勝は桶狭間の合戦の時に、この当時安置されていた鉄地蔵の錫杖を持って
出陣し、大勝したそうです。
後に蜂須賀家は錫杖を家宝としているそうです。



蓮華寺の裏にある蜂須賀山は、標高わずかに11.8mですが、


三角点が置かれたり、


自然植生の常緑広葉樹が繁茂する、貴重な森だったりします。


かつては、この山を一周するように道があり、お地蔵さんが並んでおりました。


中学生の頃の橋吉少年はそんなことは全く理解できず、この道を自転車で走行し、友人と足の着く回数の少なさを争ったりして喜んでおりました。

そういった、馬鹿野郎のせいか、現在は入れないようになっていました。


もっとも、お地蔵様は移動しておりました。


以前は倒れたり、首が取れていたのもありましたがすべてきれいに直されていました。
よく見るとこのお地蔵様は四国霊場の代わりになっているのですね。

100mほど南西へ行った龍圓寺には蜂須賀小六正勝の旧邸祉碑がありました。


                あま市美和歴史民俗資料館
               愛知県あま市花正七反地1番地
                開館時間   9:00~16:00
            休館日   水・木曜・祝日及び12/29~1/3
                 入館料    無料

                      蓮華寺
              愛知県あま市蜂須賀大寺1352

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蟹江城

2011-01-30 | お城巡り(その他)

蟹江城へ行ってきました。
場所は名古屋の西、海部郡蟹江町のほぼ真ん中です(現地案内板です)。

予習のため、まずは蟹江町歴史民俗資料館へ行きました。


ちなみに、ここの住所は愛知県海部郡蟹江町城です。



同じ建物に、産業文化会館と中央公民館分館が同居しています。
最上部が城を意識したデザインになっています。

資料館は、入場無料でした。

ここでの、予習した成果を紹介します。

現在では、内陸となっているこのあたりですが、戦国時代は海岸線でした。
したがって、桑名(伊勢国)あたりからの攻めに対する防御のために、永享年間(1429~1441)に北条時任が築いたそうです。

この城が脚光を浴びたのは、1584年(天正14年)の蟹江合戦の舞台となったときです。
小牧長久手の戦いで、徳川家康に大敗を喫した羽柴秀吉は、その雪辱と伊勢湾の制海権、そして織田信雄と家康の間を離反させるために挙兵いたしました。
滝川一益を主将に九鬼水軍を伴いいったんは優勢に進んだのですが、支城である大野城(尾張国海東郡)主の山口重政は助力を拒み、織田徳川連合軍の反撃の前に、秀吉は撤退を余儀なくされます。
こうして、秀吉と家康の表だった戦いは終焉を迎えました。

資料館では、蟹江城への道順を記したプリントを配布しています。
路地のような細い道を歩いて数分です。

住宅地の一角に石碑が建っているだけでした。



唯一、本丸の井戸が残っていました。


おそらく、最近まで使っていたのではないでしょうか。
それでなければ、じゃまなので取り壊してしまいますよね。

小さな城の小さな戦いですが、蟹江合戦が後世に与えた影響は大きいです。

まずは、羽柴秀吉と徳川家康
この戦いを最後に軍事的な争いを避けました。
秀吉は得意な外交戦略に方針を変えました。
関白となり家康よりも上の立場となるとともに、妹の旭姫を嫁がせ、母の大政所まで人質に出し、懐柔をはかります。これには家康も折れて、豊臣の政権が樹立することとなりました。

滝川一益
蟹江城主の留守を預かっていた前田長定は、かねて羽柴方の滝川一益に通じており、一益軍を蟹江城へ招き入れてしまいます。
しかしながら、織田・徳川連合軍に包囲された一益は対抗できず、長定の首をはねて降伏
してしまいます。
かつては、織田家有数の武将と言われていましたが、本能寺の変のあたりから凋落し始めた一益にとってこの件は決定的打撃となりました。
「命惜しさに長定の首をはねた卑怯者」と誹られ、以降漂泊・餓死したと伝えられています。

佐治一成・お江
佐治家は、知多半島の大半を領した豪族です。
秀吉は佐治一成を懐柔しようと考え、お市の三女のお江との婚姻をまとめたようです。
しかし、一成は合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡において、家康に船を提供し、秀吉の怒りを買ってしまいます。
このため、お江は最初の夫と離縁させられてしまいました。

茶粥
米をほうじ茶または緑茶で炊いたものです。
調べてみると茶粥は奈良・京都・大阪・和歌山で見られる食文化で、北前船の影響で西日本の各地に広がったそうです。
ただし、私の知っている限り尾張にはこの文化が残っていません。
唯一、この蟹江町だけ存在するのです。
これは蟹江合戦の折、連合軍に包囲された場内では、水をくむことも米をとぐことも満足に出来ず苦肉の策として茶の湯に米を入れたのが始まりだそうです。


蟹江町歴史民俗資料館より

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墨俣城

2010-12-07 | お城巡り(その他)

墨俣城へ行ってきました。
ここは一夜城として有名です。

墨俣(現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣)は、美濃と尾張の国境で、長良川沿いに位置しています。
ここに城を築けば、岐阜城(当時は稲葉山城)まで、船で簡単にアクセスできるので、美濃攻めを目論む織田信長にとって喉から手が出るほどほしい土地ででもありました。

それゆえ、美濃側はこの地に築城することをけっして許さず、信長家臣の佐久間信盛、柴田勝家が試みるもあいつい失敗しました。
しかし、木下藤吉郎が名乗りを上げ、一夜にして見事に築き上げ、後の出世の出発点となったという伝説が残っています。


しかし、この立派な天守閣、そして太閤出世橋。一夜では出来んでしょ?


屋根にはしっかり金のシャチまでのっているし・・・・・!

バブル景気の最中、竹下内閣は「ふるさと創生資金」と銘打って全国の各市町村に1億円ずつバラ撒かれたことがありました。
このときに、史実に基づかない城を立てた自治体もいくつかありました。
墨俣町(当時)も、墨俣城の整備にその資金があてがわれたのでした。
かくして歴史にそぐわないデザイン・規模の天守閣のような建設物は作られ、反対した議員名は瓦に記されたとか・・・・(ニュースで聞いた覚えがあります)

このようないきさつもあり、墨俣城はマニアの間では酷評なのです。

天守閣に見える建物は、大垣市墨俣歴史資料館となっています。
入場料200円を払って入ってみました。

大屋根の金鯱のミニレプリカが展示されていました。

実はこれ2代目で、初代は盗難に遭ってしまったのです。

歴史資料館は「墨俣の歴史」「墨俣築城」「豊臣秀吉について」などがわかりやすく展示され、これ自身はなかなかよいものでした。
史実に基づかない天守閣ではなく、地元ゆかりの建築デザイナーなどに設計した建物にすればよかったとおもいます。

資料館によると墨俣城は一夜ではなく数日の昼夜突貫工事で作られたと考えられているそうです。
秀吉が成功した秘訣は、
  ① 木曽で木を切り出し、木曽川を下降しながら製材・加工・蓄材を
    それぞれ別の場所で行い、現地では組み立てるだけのプレハブ工法を用いた。
  ② 美濃側に「北勢攻めの準備をしている」とのウソの情報を流した。
  ③ 失敗に終わった前任者は土塁で敵襲を防ごうとしたが、
    秀吉はまず馬防柵を張り巡らせた。
  ことがあげられるようです。

資料館にあった墨俣城の復元模型です。


けっきょく、現地で一番史実に基づいているのがこの馬防柵ということでしょうか。

最上階から金華山を臨みました。山頂に岐阜城が確認できます(山麓の建物は岐阜県庁です)。

資料館の北には神社がありました。

右側の小さなな社殿が豊国神社、左は村社です。

ひょうたんに願いを書くと願いがかなうそうです。


          墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)
            岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742
     開館時間: 09:00~17:00(入館受付は16:30まで)
     休館日: 月(祝日の場合は翌日),祝日の翌日,12/29~1/3
     入場料: 一般 200円 , 高校生以下 無料

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小丸山城

2010-10-05 | お城巡り(その他)

織田信長の命によって能登国の領主となった前田利家は、七尾城に入城したが、山城の不便さから新たに築いたのが小丸山城です。

利家が金沢に移ってからは、兄の安勝が城代となりましたが、元和元年に一国一城令によって1615年廃城とななりました。

現在は、小丸山公園として整備されています。
住宅街にひょっこり高くなっているところは、いかにも・・・って感じですが、


遺構はよくわかりません。こういったところが堀切の跡でしょうか。

本丸跡です。


 
現在では、桜の名所になっているようです。

本丸跡から七尾の街を見下ろしてみました。

NHK大河ドラマ「利家とまつ」の放映によって設置された前田利家松子之像

宮丸跡。愛宕山とも呼ばれていました。

忠魂碑が置かれていましたが、能登半島地震により無残な姿(オブジェに見えなくはないが)になっています。


小高くなっているのは忠魂碑建設のためだと思います。

 
この石垣は後世に作られたものだと思います。


七尾市愛宕山相撲場が整備されていました。

 
            小丸山公
    石川県七尾市馬出町1丁目1番地

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長浜城(近江国)

2010-06-09 | お城巡り(その他)

今回は、仕事で滋賀県の長浜へ行ってきました。
もちろん、このチャンスを生かして長浜城見学です。


長浜城は羽柴秀吉が初めて授かった城として有名ですが、現在の天守は1983年に模擬復元された鉄筋コンクリート製で市立長浜城歴史博物館として運営されています。
歴史的価値はありませんし、デザインもあくまで想像の域を超えてません。

歴史博物館の後方には井戸の跡があり「太閤の井戸」と名付けられていますが、

水没しています。
ちなみに、琵琶湖ですので潮の干満はありません。

長浜八幡宮の御旅所近くに大手門がありました。

現在は石碑があるだけです。

長浜市内には大通寺という真宗大谷派の立派な寺院があります。


山門もこの通り立派なのですが、離れたところにある地味目な台所門、これこそが長浜城の大手門を移したものと伝えられています。


この近くには知善院という小さなお寺がありますが、その表門も長浜城の搦手門を移したものだそうです。



ちなみに彦根城の天秤櫓も、長浜城から移したものと伝えられています。

【おまけ】
長浜の名物の鯖そうめんを楽しみにしていましたが、あいにく大通寺前の店はお休みでした。
そこで、茂美志゛やで「のっぺいうどん」をいただきました。

新潟ののっぺい汁とは関係ないみたいで、五目うどんにあんがたっぷり載せてあります。
ちなみに京都では「のっぺうどん」とよばれています。
寒い時期の方がおいしくいただけそうなうどんでした。

               長浜城歴史博物館
            滋賀県長浜市公園町10-10
       09:00~17:00 大人400円(小中生200円)

                  茂美志゛や
              長浜市元浜町7-15
             TEL.0749-62-0232
           11:00~PM 8:00(火曜定休)
       http://www.momiji-ya.jp/udon/index.html

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水口城(みなくちじょう)

2010-06-07 | お城巡り(その他)

水口(みなくち)は東海道五十三次の50番目の宿場です。
交通の要所であるこの地にはかつて水口岡山城という山城が築かれていました。

やがて、江戸時代になり太平の世となると山城は必要なくなり、代わって将軍上洛の際の宿泊地が必要となりました。
そこで岡山城を廃し、あらたに平城を築いたのが水口城です。


将軍家の旅館ゆえ本丸御殿は二条城を模した豪華な造りだったそうです。
もっとも、将軍の宿舎として使われたのは、1回限りでした。

1682年(天和2年)に水口藩が成立し、加藤明友が入りましたが本丸御殿は使用しなかったそうです。

水口城は本丸と管理施設である二の丸がありましたが、二の丸の跡は確認することができませんでした。
本丸は凸型をして、その飛び出た部分(出丸)が「水口城資料館」となっています。

本来、本丸の四隅にあった矢倉の一つをここに復元しています。


竹下政権のふるさと創生事業+αで建てられたそうですが、なるべく当時の木材を使用することに心がけられたそうです。


御殿があった部分は県立水口高校のグランドとなっていました。


しかしながら周囲の堀は残っています。





さらに乾矢倉の石垣は綺麗に残っています。

                       水口城資料館
               滋賀県甲賀市水口町本丸水口城内
                           10:00~17:00(木金・年末年始休)
                           入館料 大人100円(小中生50円)

近くに駐車場(無料)も用意されています。

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登山用ステッキ

2010-06-03 | お城巡り(その他)

一乗谷城、小谷城と山城訪問が続きました。
どちらも本格的山道を延々と登ることとなりました。
兜甲冑をきた武士の気持ちを思えば何のその・・・と自分に言い聞かせましたが、なかなかどうしてキツイです。

そこで、杖の代わりに落ちている枝を見つけ利用しました。
考えることは皆同じらしく、登り口には先人達が置いていった枝が何本も置いてありました。
ただ、どれも短かったり、長かったり、太かったり、細かったり、曲がっていたりして、しっくりくるものがなかなかありません。
しかしながら、枝を使うと随分楽に感じられる事は確かでした。

小谷城ではきちんとした装備をされた中高齢者方々とすれ違いました。
彼(彼女)らはみな登山用ステッキを手にして、矍鑠と登り降りされておりました。

後日、私も手に入れました。


スライドしてコンパクトにすることができ、バイクにも積めます。

登山用ステッキのグリップ部分は、スキーのストックのような縦型であるI型グリップ、水平型のT型グリップ、両者を兼ねたマルチドムグリップがありますが、私はマルチドムグリップを選びました。

登りはこう握って使います。


下りはこう握って体を支えます。

高級品になるとグリップが革張りだったりコルクだったりしますが、私は本格的登山をするわけではないので安物で充分です。

さっそく、先日の小田原ツアーに持参していきました。
1日で、石垣山城1時間+山中城2時間歩き回ることができました(さらにステッキを使わずに小田原城+三嶋大社3時間)。

この製品は、アンチクッションといってスプリングを内蔵しています。
全然期待していたのですが、意外や意外これがいい!
特に下りでは、ショックを受け止めてくれて膝や腰の負担が軽減したと思います。

今は便利なものがありますね。

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大野城(尾張国海東郡)

2010-05-11 | お城巡り(その他)


先日、尾張国知多郡(現常滑市)の大野城を訪問しましが、
大野城は、日本中のあちらこちらにあります。
その中でも越前大野城(福井県大野市)の城下町は、美しく落ち着いたたたずまいで大好きなところでもあります。

わが愛知県だけでも、大野城は3カ所あるのです。
その1つは自宅近所のはずなので行ってみることにしました。

事前にグーグル・マップで位置を調べてみて、びっくり!
なんと、高校時代このすぐ横の道を使って通学していたではありませんか。
当時は全く城など興味がなかったいえ、おどろきです。

明智光秀・柴田勝家を破った羽柴秀吉でしたが、織田信雄(信長の次男)・徳川家康と対立し、小牧・長久手の戦いが発生してしまいます。
この戦いの最終局面がこの近辺の蟹江城(海部郡蟹江町)を中心にして、おこった蟹江合戦と呼ばれるものです。

もともと大野城は蟹江城の支城としてつくられ、徳川側の城でした。
しかし、秀吉は蟹江城を味方に付けてしまいました。
大野城主の山口重政は母親を人質に取られましたたが城を守りきり、蟹江城も取り返すことができました。
この戦いが小牧・長久手の戦いの決着をつけ、和議となったといわれています。
ゆえに秀吉は、この後に天下統一を成し遂げるのですが、家康に一定の地位と力を授けざるを得ませんでした。
この地での戦いが江戸幕府成立につながると思うと感慨が深いです。

蟹江合戦の翌年の天正十三年(1585)大地震により大野城は崩れ落ち、その大部分は地中に埋まってしまい、廃城になりました。

このあたりは水郷地帯であり、河川が堀の役割をしていたことが容易に推定できます。

現在では、田んぼの中に記念碑が建っているだけです。

大野城
愛知県愛西市大野町郷前218

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大野城(尾張国知多郡)

2010-04-29 | お城巡り(その他)

所要で常滑市内の国道155号を走っていました。
ナビに「大野城」とあるのに気づきました。
ほどなく国道脇に「←城山公園」との表示板を見つけました。

用事を済ませた帰路再びこの場所にさしかかると天守閣っぽい建物がちらっと見えました。
これは行かなければいけません。

こうして衝動的に訪問したので今回はケイタイで写真を撮りました。
設定が写メサイズになってしまって、小さくて見にくいをおわびします。

小高い丘の麓に駐車場があります。

ここから、ひたすら登っていきますが、階段の段差が小さくて長くてけっこう辛い。

頂上へ着き門をくぐると、

不自然な天守閣らしき建物がありました。


でもよく見ると、

天守閣型の展望台なのです。

確かに見晴らしは良く、伊勢湾が一望できます。

この写真ではわかりにくいですが、中部国際空港も見えました。

大野城は一色氏が築いた後、尾張守護の土岐氏家臣の佐治氏が入城し以後治めました。
しかし、四代目の一成は小牧長久手の戦いの際に徳川方に付いたため、羽柴秀吉と敵対して追放されてしまいました。
その後、織田長益(信長の弟)が入りましたが、水利の悪さから、すぐ真向かいに大草城を築城して移り、大野城は廃城となったそうです。
やはり、水は城の生命線なのです。

おそらく、この展望台のような天守閣は存在しなかったはずです。

天守閣のすぐ南に佐治神社があります。

裏(北側)から見ると櫓の跡に建てられているのがわかります。

丘の南側を降りてみると、空堀の跡や

土塁の跡が見られました。

この門は復元されたものですね。


大野城(常滑市城山公園)
常滑市金山字城山地内

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