福島城祉から、クルマで30分、妙高市へやってきました。
鮫ヶ尾城は、永正から天正年間に上杉氏(長尾氏)による北国街道の防御を兼ねた街道整備の一環として、春日山城直近の最前線要塞の意味合いで築城ないし大規模改修がなされたと伝わっています。
1578(天正6)年、上杉謙信が急死すると、家督の後継をめぐって、ともに養子である景勝と景虎との間で御館の乱が勃発します。
このとき、鮫ヶ尾城主である堀江宗親は景虎側に付き、御館落城後に関東への唯一の逃げ道となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れます。
しかしながら宗親は安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放ち当人は退去。
その後、総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城、景虎は妻子共々自刃して果てました。
妙高市宮内にある斐太神社裏に無料駐車場があります。
まずは、駐車場から歩いて3分の「斐太歴史の里総合案内所」に寄りました。
斐太歴史の里総合案内所
所在地:新潟県妙高市宮内263-1
開館時期:4月初旬~11月下旬まで
開館時間:9:00~17:00(4月~9月),9:00~16:00(10月),9:00~15:00(11月)
ここで、続日本100名城のスタンプを押すことができます。
さらに、散策コースやまわりの自然について詳しい説明をしていただきました。
アドバイスにしたがって、時計回りに進みました。
ハイキングにちょうど良いくらいの散策路ですが、足回りはしっかりしたものを用意しましょう。
さらに、熊よけの鈴も着用しました。
1578(天正6)年、上杉謙信が急死すると、家督の後継をめぐって、ともに養子である景勝と景虎との間で御館の乱が勃発します。
このとき、鮫ヶ尾城主である堀江宗親は景虎側に付き、御館落城後に関東への唯一の逃げ道となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れます。
しかしながら宗親は安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放ち当人は退去。
その後、総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城、景虎は妻子共々自刃して果てました。
妙高市宮内にある斐太神社裏に無料駐車場があります。
まずは、駐車場から歩いて3分の「斐太歴史の里総合案内所」に寄りました。
斐太歴史の里総合案内所
所在地:新潟県妙高市宮内263-1
開館時期:4月初旬~11月下旬まで
開館時間:9:00~17:00(4月~9月),9:00~16:00(10月),9:00~15:00(11月)
ここで、続日本100名城のスタンプを押すことができます。
さらに、散策コースやまわりの自然について詳しい説明をしていただきました。
アドバイスにしたがって、時計回りに進みました。
ハイキングにちょうど良いくらいの散策路ですが、足回りはしっかりしたものを用意しましょう。
さらに、熊よけの鈴も着用しました。
復元された竪穴式住居
このあたりは、弥生時代後期後半の集落遺跡である斐太遺跡でもあります
弥生時代後期後半というのは中国の史書に倭国大乱と記された時代で、倭国の女王として卑弥呼が登場する時代です。
この上越地方にも戦火に備えた山城のような集落が数多く出現したそうで、そのうちのひとつです。
まずは、宮内池の西端を渡ります。
このあたりは、弥生時代後期後半の集落遺跡である斐太遺跡でもあります
弥生時代後期後半というのは中国の史書に倭国大乱と記された時代で、倭国の女王として卑弥呼が登場する時代です。
この上越地方にも戦火に備えた山城のような集落が数多く出現したそうで、そのうちのひとつです。
まずは、宮内池の西端を渡ります。
二本杉をめざして山道を登ります。
斐太遺跡
何本もの堀切を渡ります。
イノシシやリスも見られるそうです。
東一ノ丸
一番急なところ
ここも急でしたが、本丸の東屋が見えてきたので、気分的には辛くなかったです。
本丸西の堀切
本丸
登り始めてから約30分で到着
本丸からの眺め
妙高市・上越市を見渡すことができます。
反対側は山です。
本丸東の堀切
米倉跡
炭化された米粒も見つかっているらしいです。
探してみましたが、わかりませんでした。
前日、雨天だったため道が滑りやすくなっています。
よって、総合案内所のおばちゃんのアドバイスに従い、急な本丸からの下り道を避け、なだらかな米倉からの降り道を選択しました。
北登城道は緩やかです。
坂道も階段状になって歩きやすいですが、見所はなく単調です。
行きは東登城道、帰りは北登城道と時計回りにまわって正解でした。
上信越道のトンネルを越えると、斐太歴史の里総合案内所に戻ってきます。
2.9km、1時間30分のウォーキングでした。