九州ツーリング2日目、唐津のホテルを出発して、佐賀市へ向かいました。
佐賀は佐賀藩の藩都であり、佐賀城はあったところは、いまでも市の中心部になっております。
にもかかわらず、無料駐車場完備!
鯱の門および続櫓
本丸の門として1838(天保9)年に完成、佐賀の役も耐え抜いた現存建築物です。
佐賀城は龍造寺氏の居城でした。
龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れて戦死したのち、家臣の鍋島氏が実権を握りこととなりました。
本丸御殿は復元され、佐賀城本丸歴史館として使用されています。
御玄関
御式台
応接間またはいろいろな行事に使われた場所です。
日本百名城は受付で押すことができます。
入場料は無料ですが、中身は大変充実していました。
名護屋城もそうですが佐賀県の歴史資料館に対する姿勢はすばらしいものがあります。
ボランティアガイドの方に声をかけられました。
齢八十の老紳士でしたが、わかりやすくかつ熱心に、1時間ほどもマンツーマンで解説いただきました。ありがとうございました。
御座間(ござのま)
藩主の居室があった建物です。
明治以降、小学校の校舎と使われた後、公民館として使用されていました。
したがって、この部分だけは現存する天保期の建物です。
外御書院
四つの広間があります。
この四つの広間および廊下の襖を取り払えば、320畳もの大広間となります。
まるで体育館のような広さです。すばらしい建築技術です。
本丸西門
疑問その1 お城の門としては単純だとおもいませんか。
通常、鍵形と言ってわざとL字に曲げて、突撃を阻むとともに周囲から攻撃できる形にしているものです。
天守台
外側からの登り口
御殿側から見た天守台
疑問その2 本丸内側からの登り口がありません。
これらより、天守台内側に登り口を兼ねた建物があったとされています。
天守台に登ってみました。
小倉城天守の図面を参考に4層5階の天守が建造されていたとされています。
天守台からの眺め
現在、佐賀城公園として残されているのは本丸部分だけです。
かつての二の丸・三の丸部分には、県庁、合同庁舎、放送局、美術館、博物館、学校など建ち並んだ官庁街になっています。
南西隅櫓台
亀甲乱積み
城内でもここでしか見ることができません。
本丸南側の堀
幅40間(約70m)あります。
立派な土塁
草の生えた45°の坂は滑って登りにくく、堀を泳いできた兵に対して有効であると考えられます。
佐賀城は平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられています。
城が樹木の中に沈み込んで見えることや、攻撃にあった際は主要部以外を水没させる仕組みになっていたので別名「沈み城」とも呼ばれていました。
本丸西側の堀
埋められて浅くなっています。
佐賀県立佐賀城本丸歴史館
佐賀県佐賀市城内2-81-1
開館時間;9:30~18:00
休館日;12/29~12/31
佐賀城公園から1km離れたところにある築地反射炉
幕末、十代藩主、鍋島直正がつくらせた日本初の実用反射炉です。
この完成により、日本でも鉄製大砲の鋳造が可能となりました。
それまでは青銅製しかつくることができず、列強のそれに対して劣っていました。
江戸のお台場の大砲もここで作られたそうです。
現在は佐賀市立日新小学校の校地になっています。
グラウンドでは、盆踊りの準備がされていました。
あれれ?カノン砲が置かれていますね。
他の門に比べ、西門の造りが甘いので急造ではないかと思っていたのですが、やはりそうでしたか。天守台の構造も納得できました。城跡を見て当時のことを考えるのは、楽しいですね。
ありがとうございました。
形式上の主君として本丸に居て、鍋島氏が
二ノ丸に居たため、本丸からは入れないが
二ノ丸から入れる天守になっていると聞いたことが
あります。
ただ、家臣の天守に見下される気分は良くは
無かったかと。
そんなところが鍋島騒動の元になっているのでしょう。
船は体力が温存できていいですよ。
この炎天下、長時間バイクにのって、降りても野外を歩き回って、運動部のように汗をかいておりました。とてもじゃないけど、好きじゃないとやれませんね。おかげで随分いろいろ見ることができました。九州にはおいしいものがたくさんあるのですけど、今回はそちらの方はおろそかになってしまいました。
船で行くなんて、なんか贅沢な感じがイイなー(笑)
私も一つ城に行きましたが、時間オーバーで天守閣に入れませんでした。
今回の九州の城巡りも楽しそうだなー、食べ物も興味ありますが(^^;;