大河ドラマで関ヶ原の合戦が行われた前日、佐和山城登城にリベンジ登城しました。
前日までと打って変わり寒い日でしたが、秋晴れの一日でした。
佐和山城跡はハイキングコースにもなっており、その出発点には立派な駐車場が整備されています。
なお、ここでパンフレットをもらい、ガイドに簡単な説明を受けました。
駐車場向かいにある龍潭寺総門
このすぐ脇にハイキングコースの入口があります。
もっとも、総門をくぐっても枡形を経て同じ道に合流します。
石田三成像
佐和山城は、鎌倉時代に築いた砦が始まりとされ、以降たびたびその支配者を変えてきました。
安土城廃城後、この地が豊臣政権下の支配になると石田三成が正式に佐和山城主に任じられます。
三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って近世城郭を築きました。
当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とありますが、城内の作りは極めて質素であったようです。
龍潭寺の山門をくぐり、
大洞観音堂の右脇を進むと、
登山道の始まりです。
猿出没注意です。
こんな道や
こんな道を登ると、
やがて、尾根に出ます。
西の丸は階段状に3つの曲輪があり、そのうちの一番下の下段曲輪(塩硝櫓)
前日までと打って変わり寒い日でしたが、秋晴れの一日でした。
佐和山城跡はハイキングコースにもなっており、その出発点には立派な駐車場が整備されています。
なお、ここでパンフレットをもらい、ガイドに簡単な説明を受けました。
駐車場向かいにある龍潭寺総門
このすぐ脇にハイキングコースの入口があります。
もっとも、総門をくぐっても枡形を経て同じ道に合流します。
石田三成像
佐和山城は、鎌倉時代に築いた砦が始まりとされ、以降たびたびその支配者を変えてきました。
安土城廃城後、この地が豊臣政権下の支配になると石田三成が正式に佐和山城主に任じられます。
三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って近世城郭を築きました。
当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とありますが、城内の作りは極めて質素であったようです。
龍潭寺の山門をくぐり、
大洞観音堂の右脇を進むと、
登山道の始まりです。
猿出没注意です。
こんな道や
こんな道を登ると、
やがて、尾根に出ます。
西の丸は階段状に3つの曲輪があり、そのうちの一番下の下段曲輪(塩硝櫓)
中段曲輪
樹木が生い茂っていてわかりにくいです。
上段曲輪
上段曲輪から少し上ると
本丸
入口から30分ほどでした。
すぐ近くに彦根城が見えます。
関ヶ原以降、石田三成に代わって井伊直政がこの地を治めました。
最初、佐山城に入りましたが、すぐに新しい城の建設を始めます。
時代は山城から、平山城・平城に変わりつつあったのでしょう。
当時は、大坂に豊臣が残っており、これと対峙するために築城は急を要しました。
このため、佐和山城の建物も石垣も使えるものはすべて彦根城にもっていかれてしまいました。
本丸南側虎口
わずかに残された石垣
ここに天守があったらしいです。
千貫井戸
井戸があり、その脇には祠が建っていたようですが、倒木によって崩れてしまってました。
現地案内図の写真
ハイキングコースは以上です。
ただ、帰宅してから調べてみると、他にも二の丸,三の丸,太鼓丸,法華丸などの曲輪があったみたいでなかなか立派な城だったようです。
せっかくなので、龍潭寺へも参拝しました。
拝観料:大人 400円,小中学生 150円
井伊家の移封にともない遠州から呼び寄せたようで、浜松の龍潭寺と似た雰囲気があります。
立派なふすま絵
石庭
別名だるま寺ともよばれています。
別名だるま寺ともよばれています。
浜松の龍潭寺の庭は大変素晴らしいですが、こちらもなかなか
大久保忠隣幽居之跡
忠隣(大久保忠世の子)は小田原藩主でしたが、改易となり、井伊家の御預けの身になりました。
ただし、忠世・忠隣の武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され、その養子の忠朝は小田原藩主として復帰を果たしています。
所要時間:1時間30分(龍潭寺拝観時間を除く)
忠隣(大久保忠世の子)は小田原藩主でしたが、改易となり、井伊家の御預けの身になりました。
ただし、忠世・忠隣の武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され、その養子の忠朝は小田原藩主として復帰を果たしています。
所要時間:1時間30分(龍潭寺拝観時間を除く)
体力のある方は、彦根城とセットで訪れるのもいいかもしれません。
調べてみたところ、商工会議所青年部の方々が佐和山城天守のミニチュアをつくって展示されているようです。
さらに、国道8号線沿いには「佐和山遊園」というレジャー施設の廃墟があります。ここにも佐和山城天守を模して建築物が残されています。
コレは何かイワクアリのお城でしょうか???