長良大橋を渡り、墨俣に入りました。
美濃路は右折して、北へ向かいます。
右手には多くのお寺が見えます。
寺町です。
石垣がかなり高く積まれています。
洪水に備えてのことでしょう。
【墨俣歴史資料館】
木下藤吉郎が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城の跡地に立てられています。
墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心とした展示がみられます。
この日ははっきりしない天気でしたので資料館には寄らず、雨が降り出さないうちに先へ急ぐこととします。
(なお、以前訪問したときの記録はこちら)
【墨俣本陣跡】
建物は残っていません。
ここから長良川の渡船(墨俣の渡り)が出ていたようで常夜灯がありました。
ただし、最近復元されたもののようです。
本陣跡から西に墨俣宿がありました。
その名も「岐阜屋百貨店」という洋品店
【墨俣脇本陣】
濃尾震災(1891年)の際に倒壊し、その後に再建された建物ですが、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、当時の面影を偲ぶことが出来ます。
この日は墨俣宿全体で、つるしびな祭りを行っていました。
【津島神社・秋葉神社】
1791(寛政3)年、琉球使節の通行の折、通行記念にと残した琉球国儀衛正毛延柱の刻銘入りの石灯籠が置かれています。
なお、琉球使節や朝鮮通信使は、美濃路を使うのがが通例でした。
その後、八幡社を通り過ぎるとぱったり建物はなくなり、
犀川に沿って、再び堤の上を歩きます。
前回紹介した境川沿いとよく似た風景です。
いまでも墨俣は四方川に囲まれています。
瑞穂市に入りました。
【東束の一里塚跡】
「鎌倉街道って?」
ググってみました。
鎌倉時代、各地と鎌倉を結ぶ街道が整備されたそうで、京から鎌倉へ向かい道の一部が美濃路と重なっているそうです。
【米の宮之跡(よねのみや)】
「当村往還の傍に昔よりあり、ヨネの宮といい後に転じて米之宮と言う、云々」と説明がありました。
【町屋観音】
聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された十一面観音が祀られているそうです。
この観音堂は嘉応年間(1169年頃)結神社と共に参道東側に建立されていましたが明冶24年の濃尾地震で本堂が倒壊、また、揖斐川の河川改修(1904年)にて其の地は河川敷となり、そのため約29年間民家にご本尊は安置されていたそうです。
大正8年にこの地に本堂が再建されましたが老朽化と道路整備事業の関係で平成6年現在場所におさまりました。
【 結神社】
縁結びの神です。
常陸国の小栗判官殿と再会を願った相模国の照手姫が七日間祈願しいたところ、見事願いがかなったそうです。
境内は南北に細長いです。
城跡でもあったらしいのですが、遺構は見当たりませんでした。
カップルが参拝に来ていました。
見た目そんなに若くないような・・・結ばれるといいですね。
妻子をもつワタシとしては、これ以上良縁があると話がややこしくなるのでパスかな。
(続きます)
犀川の堤沿いに桜が植えられています。もう少しするとそれは綺麗でしょうね。
墨俣宿には昔の建物が残っております。なんでも昭和40年ぐらいまでは芸者100人以上をかかえる花街だったそうです。河川に囲まれているので堤を歩くことも多かったのですが、これはこれで趣がありました。
雰囲気が昔の街道ぽっくなってきたように思えます。
鎌倉街道ですか、こちらでも時々見かけます。