前田利家の出生地については、荒子城で生まれ育ったという説と
前田城で生まれ7歳の時、荒子城に移ったという説があります。
荒子城跡から西に向かって、バイクで15分、庄内川を越えたところある前田城跡へやってきました。
現在は前田速念寺となっています。
所在地:愛知県名古屋市中川区前田西町1-904
参拝者用駐車場に駐めさせてもらいました。
山門前には前田城跡の碑
立派な山門
無量寿堂
本堂
なんと屋根は、利家の兜を模したものです。
かっこいい!
横から見た本堂屋根
旧前田村碑
この地が前田利家出生の地であることが書かれています。
とはいえ、大正8年に設立されたものです。
その隣の石碑はよくわかりませんでした。
サンスクリット語で書かれた無量寿経の一節だそうです。
前田与十郎之墓
前田城で生まれ7歳の時、荒子城に移ったという説があります。
荒子城跡から西に向かって、バイクで15分、庄内川を越えたところある前田城跡へやってきました。
現在は前田速念寺となっています。
所在地:愛知県名古屋市中川区前田西町1-904
参拝者用駐車場に駐めさせてもらいました。
山門前には前田城跡の碑
立派な山門
無量寿堂
本堂
なんと屋根は、利家の兜を模したものです。
かっこいい!
横から見た本堂屋根
旧前田村碑
この地が前田利家出生の地であることが書かれています。
とはいえ、大正8年に設立されたものです。
その隣の石碑はよくわかりませんでした。
サンスクリット語で書かれた無量寿経の一節だそうです。
前田与十郎之墓
前田氏は織田信長に属し、西に蟹江城、東に荒子城、南に一色城、等を支配し、前田城はその中心でした。
1584(天正12)年、小牧長久手の戦いの際、前田城は秀吉方についたため、家康方の攻撃を受け落城、城主前田与十郎は蟹江合戦で討死してしまいます。
その子長種は北陸にのがれて利家に仕え、一万石(のちに二万石)を得て、利家の長女幸(こう)を妻としました。
利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となりました。
西側のようす
右が前田速念寺、左(西側)は名古屋市立長須賀小学校、奥(北側)は円盛寺
昔の集落のあとなので。道は曲がって狭いです。
残念ながら、前田城の遺構は残っていませんでした。
1584(天正12)年、小牧長久手の戦いの際、前田城は秀吉方についたため、家康方の攻撃を受け落城、城主前田与十郎は蟹江合戦で討死してしまいます。
その子長種は北陸にのがれて利家に仕え、一万石(のちに二万石)を得て、利家の長女幸(こう)を妻としました。
利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となりました。
西側のようす
右が前田速念寺、左(西側)は名古屋市立長須賀小学校、奥(北側)は円盛寺
昔の集落のあとなので。道は曲がって狭いです。
残念ながら、前田城の遺構は残っていませんでした。
山門から東を眺めたようす。
奥に見える緑色は、庄内川の西岸堤防です。
奥に見える緑色は、庄内川の西岸堤防です。
この本堂、利家の兜というより、ダースベーダ-に見えてなりません。