永禄3年5月18日(1560年6月11日)すなわち桶狭間の合戦の前夜、今川義元は前日に沓掛城に入り、(結果的に)最後の軍議を開いたのでした。
現在は沓掛城址公園として整備されています。
沓掛城址公園
所在地: 愛知県豊明市沓掛町東本郷
10台くらいは駐められそうな駐車場があります。
かつては、ここに侍屋敷がありました。
隣接する広場も侍屋敷跡です。
現地案内板
縄張り図
現在の公園案内図
案内板の向かいにも解説した碑がありました。
本丸木橋
本丸北側の堀
本丸木橋
本丸北側の堀
本丸
井戸
井戸
大手門側
案内板
二の丸
本丸と諏訪曲輪を結ぶ木橋
本丸・西側空堀
右手に見える白壁は隣接する慈光寺のものです。
諏訪曲輪
見学時間15分
諏訪曲輪
見学時間15分
果たして目的は・・・上洛だったのか?単なる織田征伐だけだったのか???
義元の目的は諸説ありますね。
城跡を歩き回って感じたことは、尾張国でもかなり義元の配下に着いていたことです。この沓掛城もそうです。尾張8郡のうち、義元の支配が2郡、織田信長は4郡でした。
私が思うに信長を尾張に生じた出来物のように感じたのではないでしょうか。早めに処置すればたいしたことないが、大きくなってからはやっかいなことになると・・・。いずれは尾張侵攻を考えていたのでしょうが、甲相駿三国同盟が成立したことと信長の台頭が実現に向かわせたと思います。
尾張は面積は狭いですが、良質な湊をもった豊かな国で、都にも近いです。駿河・遠江・三河・尾張の大帝国で財政的・軍事的に蓄えてから上洛にうつるつもりだったのではないでしょうか?
豊かな港町の確保と目の上の瘤処理に一票♪
でも・・・小説的には上洛の方が大きく見える???笑
義元は幼少のころ京で育ちました。ですから、京での生活に慣れてて実力を備えた義元に、幕府からのラブコールが合ったかもしれません。義元に上洛の意志があったとしても、まずは足固めを行ってからだと思います。
義元じきじきの出陣は家臣に意気高揚のためと担がれたぐらいだとおもいます。ひょっとしたら三河衆が反逆するのを防ぐためににらみをきかせたのかも?