勝幡城(しょばたじょう)は、織田信長の祖父にあたる織田弾正忠信定によって永正年間(1504~1521)に築かれたと伝えられています。
1534年生まれの織田信長は那古野城で生まれたとされています。
しかし、信長の父である織田信秀が那古野城を奪取したのは、1538年という説もあり、勝幡城が信長誕生の地であるともいわれています。
1555年(弘治元年)、信長は主家の織田大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、それにより次第に衰退して、勝幡城は廃城となりました。
勝幡城は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)に位置しており、規模・構造については、「東西四十八間、南北七十間、大手口東西二重堀、四方に惣堀有、惣構の外南北百二十間、東西百十四間(『尾陽雑記』)」とかなり立派なものであったそうです。
二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定されます。
もっとも、周りの河川はかなり改修が進んでいるので同時の様子を想像するのは難しいと思います。
なお、この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていましたが、縁起が悪いという理由で「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれています。
現在の勝幡城跡
遺稿は何もなく、記念碑と説明板があるのみです。
現地説明板にて補足説明をしていただきます。
記念碑表
記念碑裏
横から・・・・・・・・落城の危機!
信長生誕を育む会(はたして、この日本語はどうなんどんだろうか)のURLは下記に変更されているようです。
http://www.ooutsuke.org/
城跡の西側に位置する三宅側にかかる嫁振橋です。
橋のたもとには、在りし日の勝幡城の復元図がはめ込められていました。
勝幡城跡
稲沢市平和町城之内
SevenFiftyです。
>横から・・・・・・・・落城の危機!
上手い!
わたしは真面目な話は苦手なのでこのようなちょっと外したネタが好きです。
ヘンなところに突っ込みしてすみませんでした。
「育む会」は日本語的に変でしょうね。生まれたばかりの信長がこれから成長するのを見守る、応援するという会なのであれば、既にどこかで「生まれ変わり」を見つけているのかもしれません。
こうなるとますます天気が悪い(悪そう)とF6Tを出すのが面倒です。
カブのような原付2種の足が欲しい。
復元図を見ると大層なお城のように思います。
…なんて提案をここでしても仕方ありませんなぁ。静岡も入梅しました。
敷石の下が軟らかそうな土なので、なんか心配です。
やっぱりヘンですよねぇ。だから、「うっつけ、うっつけ、うっつけ、ホッ」なんですよ。
カブは道草がとても楽です。気になる道があったら、行き止まりも気にせずに寄っていけるし、自販機横に停めてまたがったまま飲み物を買ったりも楽々です。一旦停止して、写真を撮ったりもお手の物ですよ。
現地看板で初めてこの団体を知りました。郷土史研究グループかと思ったら、ちょっとちがうみたい・・・。まあ、楽しそうだからいいかと。
確かに変な団体ですが、楽しそうでうるさい私には打って付けです!流石に素面では無理かなぁ~
名古屋には「名古屋おもてなし武将隊」というものがあります。元来はリーマンショックの際の緊急雇用対策として、公募に応じた若者に観光PRをさせたのが始まりなのですが、コレが受けに受けて今や芸能人並みです。今や各地に広がっているようです。神戸にも・・・