デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



歴史の資料が数多く残っているゆえか、ユリウス・カエサルの話となると、分厚い単行本二冊の分量になる。
彼を中心的に取り上げた『ローマ人の物語』の第4巻・第5巻は非常におもしろく読めた。次の日、眠気が襲ってつらくなると分かっていたのに、寝る間を惜しんで読みふけったのは久しぶりだった。
もし、多くの人に偉大なリーダーであり政治家といえば誰?と問えば、カエサルの名を挙げる人も少なくないだろう。またローマのあるイタリアの教育では、カエサルのことを必ず学ぶのは当然かもしれない。
カエサルという人は何においてもスケールが大きかったんだなと感じた。塩野氏の作家という立場から、カエサルが女性にもてた理由を考察した箇所もおもしろかったが、私はカエサルが金の使い方を知っていたという点に興味を覚えた。カエサルは莫大な借金もしたし、またガリア戦役以降は儲けもしたが、自身の私財を貯めこむことには無関心だった。自分の野心が満たされることがすなわち公共の利益につながるように、惜しみなく私財をつぎ込む(いわば莫大な寄付)のは、なかなかできない真の一流のお金の使い方だと思う。現代でも、多額の寄付やその他で価値あるものを世間に還元した人は、権威を得るだけでなく尊敬もされる。(尤も還元した対象の広さによっても評価は変わってくるが)
歴史に「もし」はないと、塩野氏も本の中で繰り返しているが、カエサルを暗殺して結果的に得したのは誰?とか、カエサルが生きていたら?、などと、正直思った。カエサル暗殺について、私が思ったのは権威や権力を持っているだけでなく、自らが積極的に動いて大きな仕事を成す人というのは、周囲が抱いている嫉妬や羨望に疎い面があるということだ。カエサルの天才ゆえの欠点は、そこかもしれない。それに人は人から許してもらうよりも、悪態をつかれたりするほうが、まだ気持ちの整理がつきやすいことがある。いろいろ意見はあろうが、なんとかの三分の理というやつをブルータスやカシウスに対して想像してみるのも、あながち無駄ではないと思う。殺害には至っていないものの、現代でも部分的であれカエサルのような能力を発揮するような人が、一線から葬り去られるようなことは少なくないのだから。
カエサル亡きあとの内乱の話、つまりアントニウスとクレオパトラ、そしてオクタヴィアヌス(のちのアウグストゥス)をめぐる歴史は、後世のシェイクスピアをはじめとする多くの芸術家たちの作品、演劇やオペラ、映画・ドラマもあるので、親しみやすかった。しかし、演劇も映画もやっぱり描かれ方に「特徴」や「個性」がある、ということを改めて認識した。それに史実だけを見ると、アントニウスは単純に、、、いかんやろ!?

ところで、いつも世話になっている楽器屋で、この第4巻と第5巻の内容から、ヘンデルのオペラに『ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』という作品があり、そのなかのアリア"Piangero la sorte mia"という曲をおすすめいただいた。聴いてみると、たしかに哀しく美しい旋律だった。すばらしい曲を教えていただき、感謝!

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