デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



この間、美術館にご一緒していく約束や、名所案内する約束などを反故にしてしまった方々に、こんな場ではありますがお詫び申し上げます。

祖母のことだが、転院が済んだ。病状事態はこれ以上回復への道は絶たれ、あとは静かに療養するのみとなった。
しかし、こんなときだからこそ、しみったれたことを考えないようにするほうがいいように思う。つーか、妙なものだが、こんな時こそ家族間のコミュニケーションが格段に増えるものだ(笑)。

不謹慎なようだが、私個人はいずれ訪れるであろう仏式の葬式の際の対応として、ゴータマ・シッダールタの神がかった伝説を批判的に考察した学問的な本を読みあさったり、葬儀にかかる全体費用がどのくらいになるのか調べたり、親類縁者に尋ねて葬儀の是非について話し合ったり、それら参考になる本を読んだり、遺影になるであろう画像ファイルを用意したりしている。また、なるべく病院内や普段の生活の場で小噺をつくるような会話を心がけている。前々から、落語や歌舞伎やジョークやユーモアは好きなんだけど(笑)。
というのは、家族を信じてはいるが、この状況下では、誰かが冷静でないといけないのだ。転院の手続きの際の付き添いでも、ゆっくり時間をかけて手続きすればいいものを、両親の神経が高ぶっていることなどは観察すればすぐわかる。そんなときこそ、笑いをもってして右から左へ受け流す一歩退いた物腰でいて、隙あらばジョークを炸裂させるぐらいでなければならない。
でないとなぁ、祖母が他界したとき、寺に一応の義理を通すとしても、本来のインドの仏教からしたらてんでおかしい現代の葬儀の形式を、おかしいもんはおかしいので葬儀業者にはお帰りいただくための説得に必要な心的余裕が、うまれない気がするのだ。
喪主はおそらく私ではないが、遺族の負の感情につけ込まれる前に、葬儀を出す側の人間が余裕を持って、さまざまな事を冷静に選択・決断させるような空気を作るのが私の役目だろうし。
もし「葬式の規模」の話が出て、故人を花で飾ったり妙な燈明で極楽浄土を再現するようなセットが加わったりするようなことがあれば、「祖母は脳梗塞を患った時点で、般涅槃(はつねはん)に至ったから、亡くなったあとで何を飾り付ける必要があろうか」ぐらいなことは言っておきたい。それでも花で飾らないと式の形がという意見があれば、「結局は遺族の見栄か世間体か?」とあえて問うだろうし、一心に帰依しない私のことをバチあたりだという人がいれば、そう言い放つ人こそ釈尊が批判の対象にした智慧を授けない人物であるということを忘れずに冷静に対処したい。そんなバチだったら背負うてもなんら怖くないだろう(笑)。

で、タイトルの「シカめっ面」のことだが、二日間、家の車が車検のために滋賀県に行っていたその帰りのことである。
車検が完了した良い状態の車だったが、ちゃんとした公道を走行していると野生のシカが横から飛び出してきたのである。私は急ブレーキをかけて止まることができたが、対向車がクラクションを鳴らしたことで、シカが慌て方向転換をした際、私の車の前に体をぶつけたのである。
軽く当ってきた程度なのでボディーは無事、ついでにシカも無事だったが、よりによって車検あとのタイミングかと、しかめっつらして帰ったのである。
家族にそのことを言うと、なんと従兄弟が過去にシカを車で跳ねてシカがひっくり返ったという話を教えてくれた。私はシカだけに仮死状態になり、偶然にも従兄弟は歯医者から帰る途中の出来事だったのでは?とすかさず切り返した。
こんな形で書いてしまえば何ら臨場感も無くおもしろくもなんともないだろうが、その場にいた人間ならわかるような内容を、そして「罰当たり」な内容をそれこそ顔をしかめつつ読んでくれた、ディスプレイの前のあなたに感謝します(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )