デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



今回の『カラマーゾフの兄弟』を読むにあたって、前もって心しておいたこと。

①「後編」のことは考えない。
②さまざまな学者や在野の評論家・作家の解釈を読書の最中に挿まない。
③作中に出てくるエピソードや警句からドストエフスキーの生涯や評伝の内容を読み取ろうとしない。
④登場人物の性格を一言で言い表すような「整理」はしない。
⑤小説と現実とを区別する。
⑥作品は必ずしも時間的順序に従って書かれていないが、ときには時間的順序を考えて作品を読み取るようにする。
⑦書かれていることをありのままに読む。

とはいえ、どれもが私にとってみれば困難なことだった。とくに①②③⑦はどうやっても、私自身の中で邪魔が入ってしまった。たとえば「大審問官」のあとイワンとアリョーシャが別れるときに、アリョーシャは歩いていくイワンを後ろから見ると彼の右肩がいくぶんか下がりめになっているのに気づくが、それは「メフィストフェレスの隠喩だ!」などと勝ち誇ったようにわかった風に読んじゃいかんと、わかっていてもどうしても以前聞いた「斬新な解釈」が浮かんできてしまうのは否定できない。尤もこういったことは他の場面にも恐ろしいほど自分の内部からたくさん出現してきて、四度目の読書ながら、自分で自分に当惑してしまった次第である。
人文書や教育書、社会問題を論じた書物、またはそれらについてメディアを介し発言する人にままあることだが、書かれてあることをありのまま読まず、自分の解釈をおのれの情念の強さでもって強硬にかつ狷介(けんかい)に「独自解釈」を一般大衆に押し付けて、その「独自解釈」が実は根本的におかしいんじゃないの?と言われた途端、嘲りと憤怒と罵詈雑言を駆使して
「それは君の勉強が足りないんだ、バカだなぁ」
と平気で言ってのけられてしまう事象ってあるだろう。私なんぞは、そんなことを「偉い人」から言われると、「教養」という言葉にひどく敏感で劣等コンプレックスすら直ちに抱いてしまう決して少なくない数の一般大衆の一人だから、すぐに「私が間違っておりました」と認めて、大審問官に付き従う人々みたいになってしまう。
そのことを防ぐために↑7つを前もって心がまえておいたのだ。ようするに今回の読書の目的は近年の『カラマーゾフの兄弟』読書に見られる「ヘンテコ解釈」を払拭、払拭できなくともどこがヘンテコなのか自分の頭で考えて把握すること、そしてなにより作品をあるがままに楽しむことであった。
私にはロシア人の友だちがいる。その友だちも『カラマーゾフの兄弟』が最高の小説だと熱く語ってくれた。私はロシア語は読めないが、ロシア語の原文に忠実でかつ作品を細かく読み取った上で丹念に翻訳されたテクストから読みとれる『カラマーゾフ』を読んだ上で、作品に対する感想を友だちに述べたいし、それはロシア人の友だちだけでなく普段から接する友人・知人に対しても同じであることに変りはないのだ。

(たぶん、つづく。)

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