デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



バルガス=リョサ(田村さと子 訳)『楽園への道』(河出書房新社)読了。

読了まで時間掛かったが、しかし読んでよかった。たぶん今年読んだ作品の中で一番になる可能性大。
2ヶ月前に、西 周成『タルコフスキーとその時代―秘められた人生の真実』(アルトアーツ)を読んでから映画『ノスタルジア』を再鑑賞し、それなりにいろいろ考えつつあるなかで読み進めたリョサの『楽園への道』…。なんかこの流れ、ここ数年の私のなかにある偉大なる思想家とか、聖人とされる人や芸術家とされる人に対する見方の変化にコミット(積極的に関わる)しているなぁと思う。
その見方の変化を一言でいえば、偉大な思想家や作家、画家、宗教の創始者も聖人も殉教者も所詮は人間である、ということを粗を突くことに留めるのでなく改めてフモール(ユーモア)でもって捉えなおすということだろう。
タルコフスキーについては割愛するが、リョサの『楽園への道』に出てくる二人の主人公フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャンに関する記述の「業績面」での記述のみを抽出すると、私にとってそれは「聖人視」したくなる内容そのものだ。とくに日本ではほとんど知られていないゴーギャンの祖母にあたるフローラ・トリスタンによる女性の立場の改善とブルジョワの搾取の告発、労働者の団結を説きまわった19世紀前半のフランスでの先駆的な活動の記述は心の激しい動揺無しには読めない。語弊があるかもだが#MeTooに賛同するもののイマイチ説得力を発揮できない運動家達も作品のフローラ・トリスタンと彼女に語りかける二人称の語り手ぐらい事の本質を掘り下げて発信すれば良いのにとさえ思う。
『楽園への道』のすばらしいところは、武力衝突の無い形で社会の構造的な改革を目指した彼女が直面した人生の困難をどうにかするために彼女が取った行動が、彼女の目指す夢の実現とはおよそかけ離れた矛盾したものだったことも多いことを臆面無く書いているところと、彼女に語りかける二人称の語り手の言葉が厳しくもとても温情に満ちた厚いものであることだ。彼女が生涯を賭した使命と現実の生活との間に否応なく現れるジレンマや矛盾を堂々と示してなにが悪いのだ、そういう人が信念を曲げなかったからこそ後世に確実に影響を与えたのだ、そういったことをテーマにしたいという作家の信念を感じた。
作品に出てくる当時のフランスの描写から、私はいろいろ考えさせられた。考えさせられたことの一つに、かつてV・ベンヤミンの『パサージュ論』とパリのパサージュに魅せられて、現物をパリに見に行ったことの意味ってなんだ?という疑問がある。なんだか行ったことが無意味なような気がしてならなくなってきたというか。
しかしながら集団が夢を見れた時代、あらゆる欲望を搾取無しに肯定・実現するシステムを考え出そうとした時代を、当時の最新の技術がシュルレアリスム的ノスタルジーを感じさせる物として現存しているパサージュが象徴していると知ったようなことをメモした状態で現地に立ったような私ではあるが、夢を見た人々の実際の姿、矛盾だらけのそれでいながらまっすぐで誠実な姿を抽象論でなく具体的に突きつけた『楽園への道』もベンヤミンのいう子どもが母親の衣服のすそにしがみついていたときに顔をうずめていたその古い衣服の襞に見いだすものじゃないかという思いもするのだ。あの体験があったからこそ、さらなる襞を見出すことが出来るというか。理想を言えば、ベンヤミンが書き足そうと思っていたことが『楽園への道』に多分に含まれているようなことであればなお素晴らしいことだろうと夢見たいものだ。

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