デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



魯迅(竹内好(よしみ)訳)『故事新編』(岩波文庫)、読了。

『故事新編』のなかで未読だった「補天」「理水」「采薇」「起死」を読了したというのが正確だ。
ここしばらく「史記」や中国神話や四書五経にちなむ本を読んでいることもあって、4作品ともに非常に楽しめた。古代中国の神話・伝説や歴史が魯迅の手にかかると一気に身近なものになるなぁと改めて感心した。
天道是か非かで知られる伯夷・叔斉が出てくる「采薇」(わらびを採るはなし)と、夏王朝の祖である大禹がやってくることでやきもきする村人と役人たちを描いた「理水」(水を治めるはなし)が気に入った。伯夷・叔斉のエピソードは世の不条理と問う悲惨な話なのだが、彼らも迫ってくる餓えには苦しんでいたはずで、彼ら自身の行動の動機や周囲にいた人たちが彼らの信念に対してどういった態度をとったかといえば作品にあるとおりかもしれないと思う。
また土木工事の学問の理屈ばかりこねて治水の実践が伴わない学者や、名声はあっても自分の身なりなど気にせずあちこちで世のため人のためにひたむきに治水工事をこなすような人を見抜くことができない周囲の村人や役人、妻子を顧みず公共事業に邁進する旦那のことを罵る禹夫人が出てきたりする「理水」は身につまされる内容ではあるがユーモアに満ちていて笑えた。魯迅は当時の自分の置かれた状況や世の中を古代の登場人物を用いて皮肉ったり風刺する形で表したが、作者の見ていた世間の営みは今と全く変わらないことがよく分かった。

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