デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福(上・下)』(河出書房新社)読了。

歴史は編年体であれ紀伝体であれ所詮人が書いたもの、というところがあるが、ハラリの書く人類史は人が書いたものとはいえ人類の行いの実際の姿を描いていると思う。
人は誰でもというわけではないにしろ、人類ってすごいなとなんらかの機会に思うことがあろう。また別の機会では地球にとってろくなものじゃないと思うこともあろう。ただなにがすごくてどういったところがろくなものじゃないことを無意識で分かっているようであっても、アウトプット、つまり表現するのは非常に困難である。
著者の書く人類史は生態系に対する人類の功罪について目を背けたくなる事実を明らかにしてくれていて、この本の手厳しい主張には納得することが多い。私も人類は生態系にとって有罪ばかり下されていると思う。私などが人類の罪の有無を軽々しく書くことに及び腰になりつつも、やっぱり私もそう考える。そういう私自身が育ってきた社会の影響の下で培われた判断基準内でのものではあっても。
こういう自らの固定観念を揺さぶってくれて人類の功罪についてずばり衝いてくれる本はひさしぶりだ。
私個人が最も興味を惹かれたのは、認知革命を経てからの人類の虚構を信じる力を著した章だ。家族や一族という集団の単位を超えた赤の他人や遠くの人と共通の目的を共有し協力することがどうして人類には可能なのか、そこには共同的主観性でもって虚構を信じる力があり、それがもたらした神話や宗教、統治システム、経済システムはまさに人類が世界を征服するにあたって必要なものであったことは確かだろう。ただ、それはまた人の利益の飽くなき追求を肯定し格差を生み出し、どんどん個々人が集団から切り離され孤独・孤立へとを促されてしまっている現実という著者の指摘も鋭いものがある。月並みでなんだが、非常に悩ましい問題だと思う。
下巻の後半は『ホモ・デウス』にも通じるところがあったので、『ホモ・デウス』(の下巻)もぜひ読んでみたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )