デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス(下)』(河出書房新社)読了。

恋愛対象の人物像の判断基準をAIに訊ねたり、AIを恋愛対象にしたりする世界が訪れている…10年近く前に
の話題があったが、
人工知能が変える 恋愛も人の心も AIと「結婚」した男性
という記事も出たこともあって、これをきっかけに『ホモ・デウス』(下巻)の感想をまとめたくなった。おそらく、アニメキャラの抱き枕と結婚した男性のニュースは単なる笑えるネタにすぎなかったが、先日のAIと「結婚」した男性の記事は、今となってはまだ珍しい部類の記事に入りはするものの、『ホモ・デウス』(下巻)の「八七パーセントの確率」の項で述べられる将来的に人間が抱く自己欺瞞を許さないコンピュータの一歩手前のように思ったのだ。逆にいえばハラリの本を読んでなければ上の新聞記事により注目することはなかったことだろう。
AIの活用が世界を席巻する早さはすさまじく、あらゆる分野でAIが人間の活動に影響を与えまた人間に取って代わってきていている事実について、ハラリの紹介する事例はユーモラスな描き方だけに切羽詰った感じを受けた。
とくに著書の中で語られる医療の分野でも、AIのほうがより精度の高い検診と適切な治療を行なえる世界が到来するとなると専門家の職が必要なくなり、それはカウンセリングなどの精神医療の専門家もAIに取って代わられる事態を招くかもしれないことを思うとなおさらである。専門家が判断を誤ることは今に始まったことではないし、それならばいっそのこと、というわけだ。実際上のような事例が起こっている。
また、著書の中で容赦なく分析される「人格」についてだが、確かに真の自己など存在しないのはそのとおりだろう。読んでいる最中、人間の精神活動を侮るな!と叫びたくなったが、叫んだところで近代以降人間が求めてきた内なる声が衝動的で自己欺瞞に満ち移り気なものである冷徹な指摘は認めざるを得ない。
人間が主張できるのは、せいぜい記憶がその当人らしさをかたどる、という程度かもしれない。将来的に人間の記憶の取り扱われ方がアーサー・C・クラークやジョージ・オーウェルの世界と同じような形をとっていく感じになっていくかもしれないというのは分かる気がした。
ただ、SFの世界は過去に未来世界の姿として論文や小説で示されたことであることをハラリは書き忘れていないし強調しているようにも思う。つまり昔の読み物で歴史を学べるだけ人類は未来選択の余地を確保でき、過去の失敗の二の轍を踏まずテクノロジーと付き合っていく最良の選択を行なうことがまだ可能であることを著者が示しているのは大いなる希望であると私も思った。少なくとも、ヘーゲルの「歴史から学べる唯一つのことは、人間がなに一つ歴史から学ばないということだ」という警句くらいは念頭においておきたいものだ。


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