デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



笹尾山までやってきた

合戦のコスチュームの観光客か?

左の青年、兜飾りの形からして、島左近!?

まぁ、実際、笹尾山のふもとは島左近陣跡があるし不思議ではないが、それにしてもマスクを防具の頬あてのデザインにしているとはうまく考えているなぁ。

島左近陣跡

石田三成の忠臣・島左近。三成に「過ぎたるもの」と評されるほど優れた人材だったとされるが、このくだりを聞くたびに、石田三成は酷い言われようだなぁと可哀想になってしまう。




島左近は謎多き武将ということでも知られるが、よく分かっていない前半生(出身地が4つほどある)に加えて、没年がわからない、関ヶ原の合戦で獅子奮迅の戦いぶりを発揮したそれ以降も生き延びたいわゆる生存説があることも、島左近がよりミステリアスな武将足らしめている要素だろう。
前回の記事にある解説板には島左近は黒田長政の家臣・菅六之助(かんろくのすけ)の銃撃で負傷したとされるとある。この解説版では撃たれて負傷し、奮戦の末、討ち死にしたとも、戦場を脱したともいわれるとある。
実際、島左近の墓もいくつかある。私の知る限りでも2つあるし、その一つに詣でたことがある。いくつかある墓の内、本当に埋葬された墓があるのかもしれないし、西首塚や東首塚に他の戦死者ともども埋葬されてしまっているのかもしれない。


黒田長政は石田三成と島左近の軍勢と一進一退の攻防を繰り広げた。島左近は何度も黒田長政軍を押し返したが、黒田長政は一隊を割いて笹尾山の北側へ迂回させ、石田軍を側面からも攻撃した。島左近が鉄砲で撃たれて戦場を脱すると一気に黒田軍の有勢となる。
西軍の武将の寝返りが相次いで、西軍は総崩れとなり西軍諸隊は敗走。なおも踏みとどまっていた石田軍に黒田長政・東軍諸隊が最後の猛攻を仕掛け、石田軍は壊滅、勝負は決した。

映画の話が聞こえてきた

甲冑姿の二人と子どもの会話内容から「カリオストロの城」のタイトルが聞こえたので、帰宅してから調べてみると「岐阜ドライブインシアター in 関ケ原古戦場」の日だったようだ。ということは甲冑姿の男女は観光客じゃなくて、イベントのスタッフかボランティアだったようだ。コンビニで見かけた甲冑姿の男性もイベントの関係者だったのだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )