柳田国男(口語訳 佐藤誠輔)『口語訳 遠野物語』(河出書房新社)、読了。
柳田国男の文語体の分も並行して読み進めたかったが全てのエピソードを並行させることはできなかった(笑)。
「古事記」や「日本書紀」の神々が公的に固定化された世界とするなら、その世界と並行して存在していたかのようなアミニズムの日本の姿、ずばりフォークロアの典型そのものが『遠野物語』なのだなと思った。未だに日本の神話については知らない事ばかりでなんだが。
『遠野物語』の存在及び語り継ぎの意義としていろいろなことを考えたが、石井正己氏のこの解説を
さらに言えば、『遠野物語』には、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだような、自然とつながった原初的な知が息づいています。いまもそうした思考や記憶は抑圧されているだけで、私たちの心の一番深い底に存在しているはずです。『遠野物語』は遠野だけでなく、東北地方、日本、さらには人類に通じる普遍的な問題と提示しているのではないかと、私は考えています。現代社会を生きる私たちのなかに眠っている、人類史的な古層の記憶を、『遠野物語』を介在させることによって、呼び起こすことができるのではないでしょうか。
石井正己『NHK「100分de名著」ブックス 柳田国男 遠野物語』(NHK出版)、p122
引用させてもらうのが一番だと思う。
個人的には物語の後世への影響力に注目するものがあった。とくに何度もリメイクされている妖怪もののアニメやTVゲームの元ネタとしての『遠野物語』の存在感は途方も無い。
また天保の改革を皮肉った歌川国芳の妖怪図のことも思い出したりもした。現代でさえ、ひどい政策や仕打ちに対して庶民の言葉にならぬ思いを形にしたり、時に負の感情や人間至上主義から一歩距離を置く事を考えたりするうえで、聞くと耳の痛くなるような物語を知っているのと知らないのでは大きな違いが現れる気がする。実際のところ、罵詈雑言や衝動的な一言より物語を引いて表現するのは難しいが、理解しあえるまでの道のりとしては遠回りなようで案外近道だったりするように思う。