デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



今や第一の趣味といっていい弦楽器を二週間ばかり触れなくなった。夜に台所での洗い物の際、洗ったばかりの包丁を水切りのためのキッチンバッグに置いたが、置く方向を間違えていたことに気づいてなかった。洗い物が終わり、強い力で左手で右手のゴム手袋を外そうとしたとき、置いていた包丁の上に勢いあまって左手の人差し指の第二間接下の外側が「当たった」。
流血したので即救急病院へと向かい、傷を縫合、翌日の午前中に診てもらったところ、抜糸は2週間後。今も関節は自分で曲げられるが、当然しばらくは指を強く曲げず、患部は清潔にすること、とのことだった。
縫合したあとに、自分のドジではあるが、以下のようないろいろと他の事のせいにしたいという気持ちはたらいてしまった。
ゴム手袋をつけていたから傷が今の状態で済んでいたのは、不幸中の幸いだった、いや待て、そもそも何故ゴム手袋なんかして洗い物をしたのだ、そうだ洗剤が自分の皮膚にとって強すぎ指の皮膚が爛れ始めていたことがきっかけじゃないか、そんな洗剤じゃなかったらこんな縫合するまでの顛末は起こらなかった…etc。人間勝手なものである。
結局のところ、慣れている台所ですら事故は起こるということ、刃物の扱いには用心せねばならないことを油断し、自分で自分の身を守らなかった私がお馬鹿なのだが、みなさんが他山の石としてこの記事を読んでくださっていれば幸いである。
ところで、先ほど開陳した身勝手な思考の連鎖のあと、自分を慰めかつ戒める言葉もこれまで読んだ本からいろいろと思いついた。「悲しみから学ばない大人は永久に子どもである」とか、「一流の木こりは一つだけ傷を持っている、傷が無かったり2つ以上あってもだめ、必ず一つだ」とか。私は楽器の腕はまだまだだが、二度と楽器を弾くのに支障が出るような怪我を負わない人間にはなりたいものだ。
それにしても、左人差し指を使わずこの文章を入力すると、どエライ時間がかかった。しかし、おもしろいことに書きたい内容はいつも以上にはっきりとするものである。

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初めて"とり"をとられた蛼家る~都(いとどやるーと)さん

一昨日、月一で行われているアマチュア落語の会のピーチク寄席が60周年を迎えた。
この記念すべき日に、同人に昇進された蛼家る~都さんが、とりで「つる」を演じられた。粋な計らいだなぁと正直思った。



全演目が終わったあと、ピーチクのメンバーのみなさんによる楽しい自己紹介や、ピーチク寄席のこれまでの足跡からのよもやま話で笑いの絶えない「大喜利」、そして最後にファンの方々へのお楽しみ抽選会まで行われた。私はピーチク寄席に通い始めて二年目になるが、この記念すべき日にも足を運べて本当によかった。
ピーチク寄席60周年、おめでとうございます。

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天守最上階から降り、順路どおりにいくと天守で使われていたであろう瓦や柱と柱をつなぐ釘みたいなもの?などが展示されていた。









下に降りてくると、湖水面の高さが低くなっている。









天守名物?の急すぎる階段までの廊下で、柱や木戸に落書きならぬ「落彫り」が散見された。ちょっと残念な気持ちになった。






昇りも降りも急な階段を使用するわけだが、昇るときより降りるほうが怖かった…。

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彦根城天守最上階への階段

天守内の階段は勾配がとても急なものもある。ちなみに勾配は62°。実際目の前にあると垂直に見えてしまう。
天守は国宝ゆえか、余計な演出は施されてなかった。
以下、天守最上階からの眺め。








上手い具合に曲線を描いている松の木を使っているのか…。よく思いつくものだ…。






天守最上階は意外と狭い。






琵琶湖が見える。






桜は丁度見ごろだった。





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『カラマーゾフの兄弟』を読了した。今回でたぶん三回目だ。

このおもしろい小説について、難しく深遠な感想は今回も書けないだろう。だから適当に思いついたことを書いてみる。(ネタ割れ注意なところあります)

今回は、裁判の場面でイッポリート検事による論告「白鳥の歌」のシーンと、フェチュコーヴィチが最終弁論を行う場面が印象に残った。
検察側であるイッポリート検事は、被疑者と実は顔見知りであり、家に招いたことすらあるのだが、全ロシアから注目を浴びる裁判で検事を担当しているとなると、知り合いであることに恥辱を覚えていたりする。彼はそれなりに全身全霊をかけて職務を全うする。しかし真相を知る読者にとっては、この検事は憐れな役割をあてがわれていることを知っている。それになんたることか、検事は被疑者を有罪に導くという、この「職責」を全うしたのはいいが、9ヵ月後に結核で亡くなっている。作者の意図を感ぜずに読め、という方が無理かろう。
検事の論告は常に自分を押し殺してきた人間が何らかのきっかけで解き放たれ、とたんに饒舌になり、いよいよ自分をコントロールすることが出来なくなるような支離滅裂を帯びるように描かれているので、くどいようだがその内容は事件の真相と異なる。しかし、この検事の長い論告のなかには、作者自身の自伝的エピソードを語らせているところがあるから憎い。
そして被告人の弁護に当たったフェチュコーヴィチ。たしか、フェチュコーヴィチという言葉は、"阿呆"という意味になるのではなかったかな?(後記※註有り) たとえば「思想と密通する男」の章で引用している聖句には、そもそも聖典に載ってないものもあったりするわけだから。
とりあえず、フェチュコーヴィチの最終弁論は、第三者としては限りなく真相に肉薄した内容となっているし、おもしろいことに、ドストエフスキーが生涯抱えたてんかんの持病を常に距離を置いて論じてさえいる。またその弁論では良識ある専門家がコメンテーターとしてテレビで語るような、いろいろな警句が発せられている。しかし、ドストエフスキーがあえていじわる?したのか、そういった金言は阿呆の雄弁でなされていることに、変わりはないのである。阿呆の雄弁でもって傍聴人の人々は心を奪われて弁舌に酔い、その感動の勢いのまま一旦真実を認めても、判決ではまっとうな判断を時に下せないのは、人間のおろかなそれも現実的な悲劇もしくは喜劇を表現していると思うのだ。
数を上げればきりがないが、フェチュコーヴィチが語った内容で印象に残った一節をあげる。

「…いったいなぜ、ものごとを想像しているとおりに、想像したいと考えたとおりに、仮定しなければいけないのです? 現実には、きわめて緻密な小説家の観察眼からさえこぼれおちてしまう、おびただしい事実が、一瞬にして起こるかもしれないのですよ。」

これって、カエサルの言葉の延長みたいなものではないか。こんなことを"阿呆"に語られたら世話ない。それに、小説内でイワンの考え方の対極にあるゾシマ長老の教えの内容を、フェチュコーヴィチは語っている。いうなればイワンに対する答えすら、ドストエフスキーは相対化して俯瞰することを怠っていないのだ。

さて、裁判の結果は被告人にとって不本意なものになるわけだが、その判決を下すのは陪審員達(民衆の代表ともいえる)である。その描き方はドストエフスキーが晩年に抱いていた考え、民衆の(信仰)力がロシアを救うキーだといったようなドストエフスキー観を疑わせるような気がする。ドストエフスキーは民衆の良心を信じていたが、人生の場面場面における人間の良心や洞察力については懐疑的だったのではないか。
もちろん私の中で今も、ドストエフスキーが当時の不穏な社会状況の下、民衆のなかに神を見出そうとした考えには魅力を覚える。『カラマーゾフの兄弟』では馭者のアンドレイ、『カラマーゾフの兄弟』より一つ前の長編『未成年』に登場するマカール老人などはその象徴的な人物だ。ドストエフスキーは民衆や大衆ではなく、アンドレイやマカール老人らの思想とともに歩みたかったのかもしれない。

唐突だが、初めて『カラマーゾフの兄弟』を読んだ頃、「ドストエフスキーは神を信じていたと思いますか?」という質問を受けたことを思い出した。その時の私の答えは覚えていないのだが、今もし同じことを訊かれたら、「信じていなかった。しかし信じたいと思っていた」と答えるだろう。実際のところは、本人に訊ねてみないと分からないが(笑)
尤も、信仰と不信仰とを行き来していることが信仰の姿だとするなら、ドストエフスキーは信仰する心を強く持っていたと思う。
ただ、重複をおそれず書けば、ドストエフスキーは先に触れたアンドレイやマカール老人のような人間に信仰を見出していたのかもしれない。まるで、民衆人イエスといったような。言い過ぎかもしれないが、神を信じてはいるが神が創ったこの世界を認めない、神の真実や神を除いてもなお残る真実が目の前にあったとしても、一人の人間であるヨブやイエスとともに歩む、というような。でないと、マカール老人が言った

「…ほんとうの無神論者といえる連中もいる。ただそれがもっともっとおそろしいのだよ、というのはそういう連中はしょっちゅう神の名を口にするからだよ。わしは何度か聞いたことはあるが、まだそういうのに出会ったことはない。そういうのがいるのだよ、うん、きっといるはずだと、わしも思うな」
『未成年』

このような言葉って出てこないだろうと思う。小さい頃より受難を経てなおも信仰を捨てないヨブの物語を読み、獄中では聖書を何度も読み返し、自身の小説でロシアの厳しい大地で巡礼をしつづけたマカール老人を描き出してようやく至った言葉なのだ。ホフラコーワ夫人が聞いたら、それこそヒステリックにわめきたてるかもしれないが、上の言葉は信仰と不信仰の間をつねに揺れ動く苦しくも偉大な信仰告白のみたいなものではないか(笑)。

神とかイエスとか受難とか、仰々しい感想になってしまったが、最後に一つだけ。『カラマーゾフの兄弟』の一つの読み方として、人間は間違う存在であるという現実(事実)が真実であるということが、一つの大きなテーマになっていることを改めて指摘しておきたい。(というか、これは作品をお読みになればすぐにわかることなのだが)
人間は、他人の冤罪を生む存在であること、人間は当事者にしか分からない真実にまで踏み込むことはできず、また踏み込もうとする努力を疎んじる存在であることを、きれいごとや建前上の標語などなしに、ドストエフスキーはそのジャーナリスティックかつ土臭い視点で暴いて見せているように思うのだ。いつの時代でも、このことは警鐘として捉えていいと思う。

  ***

註:江川卓(えがわたく)『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(新潮選書) P.22
この姓のもとになった「フェチューク」には、俗語で「阿呆、間抜け」の意味がある。そこで「フェチュコヴィチ」は、ふつうのロシア人には「阿呆田」さんと聞えることになる。

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ロックバンド「RCサクセション」やソロのボーカリストとして活躍した歌手の忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんが昨日の午前0時51分、がん性リンパ管症のため、東京都内の病院で亡くなられた。58歳だったそうだ。

この人の曲をギターで練習し始めたのは、たしか7ヶ月前くらいだったと思うが、正直5曲ぐらいしか知らない。
しかし、昨日の夕方、「雨上がりの夜空に」をたまたま久しぶりに会った友人の前で弾き語り、うまくいったんだなぁ。私の周りには一眼レフのカメラを持った若い男女が川の風景を撮っていて、やたら音を出してる私の方をチラと見ていたこと、その数時間前に出会った親子連れ、その他もろもろ…昨日のことは、ありきたりな光景ながら妙に鮮明に記憶できる気がする。

忌野清志郎さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

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細かい部分は異なるかもしれないが、落語のまくらで、以下のようなものがある。

それは時代劇が似合いそうな頃の町で繁盛している大きな問屋が舞台になっている。店の旦那は裸一貫から質素倹約を旨とすることで店を大きくし、大きくなってからも質素倹約の姿勢は変えず商売に励んでいた。
店が大きくなると泊り込んで働く人間も増えるわけで、そうなると毎晩真夜中に目が覚めて、厠に行くという癖が治らない人間も出てくる。店にいる番頭はその癖が一向に治らなかった。そこで旦那は番頭に、
「厠に入ったら、まじないのつもりで『明晩から、よう参じません』と言ってから出てこい」
とアドバイスした。
その夜、番頭は夜中に厠で用を足し、
「明晩から、よう参じません」
と一人そらんじた。すると厠の暗闇から
「そう言わずにまたお越し」
と声がした。番頭は飛び上がって逃げ出し、布団の中でガタブル震えた。
翌日、番頭がこのことを血相変えて旦那に伝えると、「何をバカな!」と一蹴される。旦那は笑いながら「そんなことがあるなら今夜わしもいっしょに厠に行ってやる」と自ら請合った。
深夜になり、例のごとくもよおすものを覚えた番頭とそれに立会う旦那が二人揃って厠に入った。用を足して昨夜の通り「明晩から、よう参じません」と言うと、またしても暗闇から「そんなこと言わずにまたお越し」と声が聞えた。番頭に加え、旦那までも飛び上がって逃げた。
一人ならずも二人、それも店の旦那まで声をしかと聞いたとなれば、ただことではない。これには何か原因があるというわけで、町の長老が調べることになった。
長老は厠を見るなり、今でいうトイレットペーパーである落とし紙に目を留めた。
長老「これを落とし紙として使っておるのかな?」
旦那「はい。あっても仕方のない昔の帳面や手形などを、もったいないということで適当な大きさに切って使ってるんですわ」
長老「ははぁ。声の原因はこれじゃ」
旦那「落とし紙が?」
長老「昔から言うやろ? 書いたもんがものをいう、と」

『カラマーゾフの兄弟』では3兄弟の一人が酔っ払って書いた手紙が、物語後半の裁判でヒステリックな状況のもと決定的証拠として提出され、判決に重大な影響を及ぼす。
手紙がもたらす証拠能力は何だかんだいって大きい。被告は酔っ払って書かれた手紙が真実の口を開いてくれれば、などと思ったかな? 神は酔っ払って書かれた手紙に真実を語らす奇跡すら起こせない。神の真実というものはえてして気が利かないものだ。

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