デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『カラマーゾフの兄弟』を読了した。今回でたぶん三回目だ。

このおもしろい小説について、難しく深遠な感想は今回も書けないだろう。だから適当に思いついたことを書いてみる。(ネタ割れ注意なところあります)

今回は、裁判の場面でイッポリート検事による論告「白鳥の歌」のシーンと、フェチュコーヴィチが最終弁論を行う場面が印象に残った。
検察側であるイッポリート検事は、被疑者と実は顔見知りであり、家に招いたことすらあるのだが、全ロシアから注目を浴びる裁判で検事を担当しているとなると、知り合いであることに恥辱を覚えていたりする。彼はそれなりに全身全霊をかけて職務を全うする。しかし真相を知る読者にとっては、この検事は憐れな役割をあてがわれていることを知っている。それになんたることか、検事は被疑者を有罪に導くという、この「職責」を全うしたのはいいが、9ヵ月後に結核で亡くなっている。作者の意図を感ぜずに読め、という方が無理かろう。
検事の論告は常に自分を押し殺してきた人間が何らかのきっかけで解き放たれ、とたんに饒舌になり、いよいよ自分をコントロールすることが出来なくなるような支離滅裂を帯びるように描かれているので、くどいようだがその内容は事件の真相と異なる。しかし、この検事の長い論告のなかには、作者自身の自伝的エピソードを語らせているところがあるから憎い。
そして被告人の弁護に当たったフェチュコーヴィチ。たしか、フェチュコーヴィチという言葉は、"阿呆"という意味になるのではなかったかな?(後記※註有り) たとえば「思想と密通する男」の章で引用している聖句には、そもそも聖典に載ってないものもあったりするわけだから。
とりあえず、フェチュコーヴィチの最終弁論は、第三者としては限りなく真相に肉薄した内容となっているし、おもしろいことに、ドストエフスキーが生涯抱えたてんかんの持病を常に距離を置いて論じてさえいる。またその弁論では良識ある専門家がコメンテーターとしてテレビで語るような、いろいろな警句が発せられている。しかし、ドストエフスキーがあえていじわる?したのか、そういった金言は阿呆の雄弁でなされていることに、変わりはないのである。阿呆の雄弁でもって傍聴人の人々は心を奪われて弁舌に酔い、その感動の勢いのまま一旦真実を認めても、判決ではまっとうな判断を時に下せないのは、人間のおろかなそれも現実的な悲劇もしくは喜劇を表現していると思うのだ。
数を上げればきりがないが、フェチュコーヴィチが語った内容で印象に残った一節をあげる。

「…いったいなぜ、ものごとを想像しているとおりに、想像したいと考えたとおりに、仮定しなければいけないのです? 現実には、きわめて緻密な小説家の観察眼からさえこぼれおちてしまう、おびただしい事実が、一瞬にして起こるかもしれないのですよ。」

これって、カエサルの言葉の延長みたいなものではないか。こんなことを"阿呆"に語られたら世話ない。それに、小説内でイワンの考え方の対極にあるゾシマ長老の教えの内容を、フェチュコーヴィチは語っている。いうなればイワンに対する答えすら、ドストエフスキーは相対化して俯瞰することを怠っていないのだ。

さて、裁判の結果は被告人にとって不本意なものになるわけだが、その判決を下すのは陪審員達(民衆の代表ともいえる)である。その描き方はドストエフスキーが晩年に抱いていた考え、民衆の(信仰)力がロシアを救うキーだといったようなドストエフスキー観を疑わせるような気がする。ドストエフスキーは民衆の良心を信じていたが、人生の場面場面における人間の良心や洞察力については懐疑的だったのではないか。
もちろん私の中で今も、ドストエフスキーが当時の不穏な社会状況の下、民衆のなかに神を見出そうとした考えには魅力を覚える。『カラマーゾフの兄弟』では馭者のアンドレイ、『カラマーゾフの兄弟』より一つ前の長編『未成年』に登場するマカール老人などはその象徴的な人物だ。ドストエフスキーは民衆や大衆ではなく、アンドレイやマカール老人らの思想とともに歩みたかったのかもしれない。

唐突だが、初めて『カラマーゾフの兄弟』を読んだ頃、「ドストエフスキーは神を信じていたと思いますか?」という質問を受けたことを思い出した。その時の私の答えは覚えていないのだが、今もし同じことを訊かれたら、「信じていなかった。しかし信じたいと思っていた」と答えるだろう。実際のところは、本人に訊ねてみないと分からないが(笑)
尤も、信仰と不信仰とを行き来していることが信仰の姿だとするなら、ドストエフスキーは信仰する心を強く持っていたと思う。
ただ、重複をおそれず書けば、ドストエフスキーは先に触れたアンドレイやマカール老人のような人間に信仰を見出していたのかもしれない。まるで、民衆人イエスといったような。言い過ぎかもしれないが、神を信じてはいるが神が創ったこの世界を認めない、神の真実や神を除いてもなお残る真実が目の前にあったとしても、一人の人間であるヨブやイエスとともに歩む、というような。でないと、マカール老人が言った

「…ほんとうの無神論者といえる連中もいる。ただそれがもっともっとおそろしいのだよ、というのはそういう連中はしょっちゅう神の名を口にするからだよ。わしは何度か聞いたことはあるが、まだそういうのに出会ったことはない。そういうのがいるのだよ、うん、きっといるはずだと、わしも思うな」
『未成年』

このような言葉って出てこないだろうと思う。小さい頃より受難を経てなおも信仰を捨てないヨブの物語を読み、獄中では聖書を何度も読み返し、自身の小説でロシアの厳しい大地で巡礼をしつづけたマカール老人を描き出してようやく至った言葉なのだ。ホフラコーワ夫人が聞いたら、それこそヒステリックにわめきたてるかもしれないが、上の言葉は信仰と不信仰の間をつねに揺れ動く苦しくも偉大な信仰告白のみたいなものではないか(笑)。

神とかイエスとか受難とか、仰々しい感想になってしまったが、最後に一つだけ。『カラマーゾフの兄弟』の一つの読み方として、人間は間違う存在であるという現実(事実)が真実であるということが、一つの大きなテーマになっていることを改めて指摘しておきたい。(というか、これは作品をお読みになればすぐにわかることなのだが)
人間は、他人の冤罪を生む存在であること、人間は当事者にしか分からない真実にまで踏み込むことはできず、また踏み込もうとする努力を疎んじる存在であることを、きれいごとや建前上の標語などなしに、ドストエフスキーはそのジャーナリスティックかつ土臭い視点で暴いて見せているように思うのだ。いつの時代でも、このことは警鐘として捉えていいと思う。

  ***

註:江川卓(えがわたく)『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(新潮選書) P.22
この姓のもとになった「フェチューク」には、俗語で「阿呆、間抜け」の意味がある。そこで「フェチュコヴィチ」は、ふつうのロシア人には「阿呆田」さんと聞えることになる。

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