連日マス・コミが騒いでいる戸籍上の生存者の話題だが、世間は半分以上おもしろがっているように思う。しかしこの事象も結局はこちらで、大体説明がつくから、江戸時代や明治初期の記録うんぬんを言っても仕方がないように思う。
このニュースを聞いて思い出したのが、ゴーゴリの『死せる魂』という小説だ。詐欺師チチコフは戸籍面では生きていることになっている死んだ農奴(の戸籍)を買いあつめて、それを担保?に金を借りて大もうけしようとたくらむ。帝政ロシア時代は農奴が亡くなった場合でも亡くなった農奴を対象にした税金を、地主(貴族)はしばらくの間は納めねばならなかったのだ。よって「戸籍上は生きている」ことになる。税金を代わりに払ってやるからその戸籍を売ってくれ、という主人公の申し出に対する地主たちの像や反応はさまざまであるが、大抵が借金まみれになっていたり酔っ払って呂律が回ってなかったりと、あながち滑稽譚とも言い切れないものを帯びた笑いを誘う性格のように描かれている。
去年・今年と親類縁者を亡くしたことで、とくにここ数ヶ月や仏教と葬式の現状について書かれた本を読んだり、上のようなニュースや死をテーマにした映画を見ることが多いのだが、なかでも印象に残ったのは映画「おくりびと」と「その男、ゾルバ」、本では宮元啓一『仏教誕生』(ちくま新書)、島田裕巳『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)である。
話が横道に逸れすぎるのもなんなので、『葬式は、…』の感想に絞るが、親類縁者を亡くしたときに突然の状況に加え無知ゆえに葬祭業者におまかせで葬儀を済ませてしまった経験から、早めに読んでおくべき本であったと正直思う。もちろん私は親しい人が亡くなった際、遺言に背いてまで本の内容を盾にとって直葬を喧伝するつもりは毛頭無いが、しかし「今生きている世界に浄土を再現する行為」や俗人に戒名(法名)がつくことやそれに金銭が絡むこと自体、そもそものブッダの教えからすればおかしいことぐらいは知っとくべきではないかと思った。
というのは私自身、個人的に仏教に関心を寄せている時分に永遠なるもの純粋なるもの、いわば極楽を求めて、インドとネパールへ「聖地見物」に行き、そこで日本で親しまれているお経をあげたりしたものの、そこにあったものはなんら極楽浄土なんてなかったという、他人からすればバカっぽい痛い経験があるからである。無くて当然なのだ、そもそもブッダ自身、この世は無常であることを説いたではないか。ブッダは荼毘(だび、火葬のこと)にされ、残った者らが遺灰を8つに分ける際、あわや乱闘になったとされるが、そのエピソードも含めもし彼が今の仏教の現状を目にしたなら、どう思うことだろう。そんなことを考えるのはナンセンスかもしれないが、しかしこれは仏教に限らず世界の大きな宗教にも当てはまるように思う。
葬儀の話に戻せば仏教のそもそもの教えと亡くなった親類縁者が好きだったことからすれば、実際にあげた葬儀の形式で故人を偲ぶには無理があった。親類縁者が好きだったことと埋葬される儀式そのもののお題目はやっぱり私の中では異なったものだった。
少なくとも私がなんらかの形で絶命したなら、お経も必要なくその後の坊さんを呼ぶわずらわしい機会や墓など一切なしに、直葬→散骨で処理してもらいたいものだ。多かれ少なかれ人間は変なところ(婉曲な表現では個性という?(笑))があり、位牌や仏壇や墓が残らずとも、私をそれなりに知る人々は変な奴だという記憶があるだろうし、私が趣味で写したり書いたりしたものや国内や外国の友人たちに送った写真や手紙類も、彼・彼女らが亡くなって以後もなんらかの役割を果たすかもしれないのだから。それに後に残る人間の記憶やものが役割を終えたら終えたで構わないではないか。あとのことは結局のところ知ることはできないのだし(笑)。
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