ぱたぱた仙鳩ブログ

徳島から書道文化を発信します。

徳島科学史研究会30周年記念大会

2011年08月28日 | インポート

Photo 昨年から、「徳島科学史研究会」に入っています。書道の研究を進めていくときに、文系の研究会のほかに、理系の研究会の知識が意外に役立つことを実感したからです。とはいっても、自分は書道史や地方史の中の医師や洋学に関連したところが最も関心の高い部分です。昨日はこの会の30周年で、「日本科学史学会四国支部」の年総会も兼ねて、徳島大学工学部の創成学習センターで、四国全土から20名ほどの会員が集まりました。

私も年総会では初めての発表を行ないました。題名は「樋口杏斎と喜田貞吉と狩野君山」です。小松島市櫛渕八幡神社の庭にある「樋口先生碑」を巡る3名のことについて述べました。喜田貞吉は櫛渕出身で、東大卒、文部省で教科書編集をし、京大・東北大で教鞭をとる有名な歴史学者であり、彼の小学校の時の恩師が樋口杏斎、後に京大で同僚となるのが狩野君山です。樋口杏斎は医師でありながら、小学校校長・書家としても活躍したマルチな人物でした。若年に父才庵から漢方医学・書道を、湯浅翠樾・岡本斯文から漢学を学びました。希望する小学生には放課後自宅で補習教育を行ない、休日には自らの研修のために未明に徳島まで行き、阿部有清から数学を、また寺島道庵から最新の医学を学び、また各種講習会にも積極的に参加して夜遅くに帰りました。その研修の成果をまた小学生に教えました。医師としても、夜中の急患にも積極的に対応し、しかも報酬はいつも患者任せということだったそうです。常に自らのことよりは他人の幸せを優先した愛情豊かな人物でした。

東京に出た喜田貞吉をバックアップしたのが、徳島出身で東京で活躍していた国学者、小杉榲村と、最後の徳島藩主で明治政府の要職に就いていた蜂須賀茂韶でした。

このような優秀な指導者たちによって、喜田貞吉には近世末期の徳島の優れた文芸のエッセンスが濃縮され、そこにさらに東京帝国大学の近代的カリキュラムによって磨きがかけられ大きく成長しました。彼によって日本の歴史・地理学が初めて大系化され、今日の発展の基礎が作られます。

狩野君山は喜田貞吉の東大学生時代の先輩であり、さらに京大での同僚であり、日本の考証学を代表する人物でした。仲の良い喜田に頼まれて、「樋口先生碑」の題額を書いています。

調査の中で、碑の揮毫者が喜田貞吉であることも分かりました。櫛渕小学校の生徒たちも読めるように漢字カタカナ交じりで、欧陽詢風に書かれています。この碑は喜田を育てた樋口杏斎の優れた教育方法を示すと共に、地域住民と喜田の、樋口への敬愛、狩野への尊敬と友情、後世の地域住民への期待と警鐘が形に現われた重要な文化財と言えるでしょう。このようにたった一つの石碑を調べてみることで、先人の重要なメッセージがわかるものです。「困った時は足元を見直してみる。」・・今の日本には「温故知新」が必要です。

会の終了後は徳島駅前の居酒屋で懇親会もあり、物理学や工学の専門の先生方ともいろいろ話をして、得るところがありました。なかなか素敵な会です。


教員免許状更新講習

2011年08月25日 | インポート

昨日、教員免許状更新講習の一部で、書道の講習を行なったところ、30人の先生にご参加頂き、朝9時~夕方5時まで行ないました。夏休みの終了間際、残暑の厳しい中、参加の先生方は数日間の研修を受けなければならず、本当に大変だと思いました。この講習は昨年から担当しているのですが、書道専門の先生は数名で、ほとんどは小学校・支援学校の先生、また普段は他教科を教えていて書道の経験の少ない先生が多いので、書道に関する基本的な思想や構成・技術に関する話をし、実習を含めながら、かつて自分が教えてきた様々な指導法を紹介する、といったものです。自分よりも年上の先生方も多い中、なるべく2学期からの授業に生かせるようなことを伝え、少しでもお役に立ちたいと思い、「すぐに役立つ書道授業の思想と技術」 という講座名にしました。自分自身も、韓国・京都・広島・東京と立て続け移動した疲れを引きずりつつ行ない、最後には本当に体がくたくたになって帰宅しました。でも、終了後に先生方が最後に書いて下さったレポートを読むと、自分が思った以上に書道に対して良い印象を抱いて下さり、2学期から授業に書道を取り入れようと考えてくれている先生方が多かったことに驚きました。これを読んで疲れが一気に吹っ飛ぶ感じがしました。やはり人は常に 「愛のある言葉で救われる」 ものですね。

「書道は単にきれいな文字を書くためのノウハウを学ぶことだ。」 という誤解が相変わらずあります。しかし、書道教育は多くの名蹟を鑑賞し、書字行為を追究することで、文化全体に対する興味が増し、見るものすべてに対する観点が変わり、深い美意識・空間意識・歴史観・洞察力が身につくことこそ重要です。その結果として美しい文字が書けるようになるのです。そしてその能力は、他分野の芸術・建築・文章や、さらに人間の生き方にまで適用できるものです。この歴史的文芸が現代に残ったことは日本にとって幸運だと思っています。様々な面での行き詰まりを感じているこの国に、この書道という一見時代遅れのように見える文芸は、もしかしたら一つの解決策を提示するのではないかと、最近考えています。


大倉集古館の鳴鶴碑

2011年08月23日 | インポート

Okura 8月21日に東京で第33回書論研究会大会があって行ってきました。その様子については、まだ写真だけしかアップしてませんが、下記をご覧ください。

http://www8.ocn.ne.jp/~shoron-k/sub7.html

次の日は、夕方5時ごろ発の飛行機で、時間がありましたので、神田神保町の古本屋をめぐって、その後に大倉集古館に行きました。ほとんどの博物館は月曜休館なのですが、集古館がたまたま8月の第2・3・4月曜を開館していました。有難かったです。さすが一流ホテルの経営する博物館ですね。夏休みのお客が多い期間は休業なしです。下記がサイトです。日本が外国人に対する観光に力をいれるのであれば、美術館・博物館が月曜を一斉に休むというのは今後改善していかねばならないと思います。

http://www.shukokan.org/

Meikakuホテル・オークラの創業者である大倉喜八郎は、日下部鳴鶴の友人でもあり、喜八郎没後の大正2年(1913)にその頌徳碑を、篆額山県有朋、撰文三島中洲、揮毫日下部鳴鶴で、大倉集古館の庭に建設しました。ホテル・オークラ本館前の集古館の庭に、喜八郎がベンチに座っている銅像の斜向かいにあります。鳴鶴晩年のゆったりした楷書です。ちょうど補強工事の足場がついていて全景は十分に見れませんでした。またこのほかに建物の裏に鳴鶴の書いた隷書碑と松本芳翠の書いた碑もあったようですが、説明を見落としてしまったので、また次回東京に行ったときに見たいと思います。

企画展は主として息子の喜七郎の音楽関連の展示でしたが、「オークラウロ」という、フルートと尺八を合体したような楽器が興味深かったです。また明治43年(1911)に撮った写真があって、喜七郎が運転するベンツの後部座席に、伊藤博文・有栖川宮威仁親王、そしてまだ少年である李王殿下が映っています。まさしく日韓併合を象徴する写真だと思いました。李王殿下についての詳細は下記をご覧下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0


其角句碑「稲妻塚」

2011年08月20日 | インポート

Kikakukuhi 大滝山に戻ります。芭蕉句碑の建てられた同じ年に、その隣に其角の句碑も建てられました。建設者・揮毫者も同じ閑日庵応吏(?~1853)です。高さは93cm、幅は88cmあります。

「稲づまや きのふは東 けふは西   晋子」

晋子は其角の別号です。稲妻のことを詠んだ句なのでこの碑は「稲妻塚」とも呼ばれています。

宝井其角(1661~1707)は江戸生まれで、芭蕉のもっとも有力な門人です。芭蕉の没後は江戸俳諧では一番大きな勢力となりました。隣接して荻生徂徠(1666~1728)が私塾「蘐園塾」を開き交流が多かったというのが面白いです。徂徠といえば、日本における「古文辞学」の開拓者であり、儒学から道徳主義を取り外し、古典に戻って儒学を吟味しようという考え方で、学問・文学・歴史としての面を追求した人物です。西洋におけるルネサンスのように、日本に文芸の進化をもたらしました。一種の自由主義といってもよいでしょう。国学もその影響で進化します。其角の俳句表現にもそのような自由主義的な部分があるのでしょう。この句も稲妻の、人智を超えた自由さを詠んでいるように思います。

応吏の師匠である元徳島藩士の三露園万和(1767~1827)は徳島から大阪に出て俳諧を修行し、「其角四世の宗匠」と呼ばれるほど其角に傾倒した人物でした。門人の応吏としても芭蕉と共に其角の句碑も奉納したのだと思われます。変体仮名も使いながら、石の形に合わせて文字配置が考えられています。書風も柔らかく豊かな感じです。


阿波踊り

2011年08月14日 | インポート

Awaodori 徳島のお盆と言えば、阿波踊り。移住後5年になりますが、この祭りは何度見ても本当にすごいと思います。昨年までは、桟敷を予約して鑑賞していましたが、今年はあまりの暑さに外出をする気が起きず、もっぱらTVで鑑賞させていただいています。徳島のケーブルビジョンでは踊りの様子をライブで放映しているのです。

阿波踊りのルーツについては諸説があり、蜂須賀のお殿様が徳島に築城した時に、当時みやこで流行の「風流踊り」をしたのではないかとか、盆に死者を弔う踊りだったとか、様々です。ただ、戦前は今日行なわれている軽快な踊りではなく、もっとゆったりしたリズムで動きもゆっくりだったそうです。いずれにしてもあの手の動きは波の表現でしょう。女性のかぶっている笠も、大勢でそろって踊っていると波がしらのように見えます。これは沖縄のカチャーシーの手踊りとかなり近いと思います。韓国にはサムルノリという楽器演奏や農楽という演奏・踊り付きの豊作祈願の芸能がありますが、楽器はこれと共通する部分があります。最初、徳島に来たころは、吉野川で阿波踊りの鳴り物の練習をしているのを、サムルノリの練習をしているのかと勘違いするほど、リズムも似ています。

阿波の沿岸地域には古来から海人族が住んでいました。彼らは沖縄・韓国南部沿岸を含めた日本全国の沿岸地域にネットワークを組んでおり、彼らの祭りが原型になって、それが近世に形式を整えて、為政者が民衆の反乱を防止するために、祭りによるエネルギー発散として組織化されたものではないかと思います。

「海幸彦・山幸彦」の神話にあるように、日本の文化は海人と山人の文化の合体によって出発したものなのでしょう。この話では兄弟の争いの後に、山幸彦が海幸彦の文化を吸収していくように書かれています。