前後しますが、8月27日(月)、香川県まんのう町と琴平町に、日柳燕石翁の旧跡を訪ねました。これは、琴平町榎井の春日神社にあります。
地域の名士であり、歴史に詳しい大西一成さん(こんぴらけ賢人記念館常任理事)と近兼和雄さん(まんのう町文化財保護協会理事)のお二人のご案内を受けて、ぜいたくな見学ができました。
日柳燕石 (くさなぎえんせき) 文化14~慶応4 (1817~68) 52歳
讃岐琴平の質商、加島屋惣兵衛政恒の長男。名は政章、字は士煥、通称は長次郎、別号は柳東など。少年期、在所の儒医三井雪航に漢詩を学び、性来侠気に富む。のち家財を背景に博徒・任侠の世界で顔役となる。文人志士との交友も多く、慶応1年亡命中の高杉晋作を潜伏・逃走させた罪で高松藩獄に入獄。同4年出獄し、北越征討総督仁和寺宮の日誌方として従軍したが、越後柏崎の陣中で病没した。
幕末の歴史の中では重要な人物の一人です。同時期の任侠の人ということで、清水次郎長との共通点を感じます。
この時代の任侠人は今でいう政治家の要素が強かったと思います。
この神社の隣には、燕石の旧宅が移築されて、銅像が建てられていました。
幕末に高杉晋作らの志士を援助した人たちは各地にいらっしゃいました。金毘羅神社の力の強かった琴平町や、国学者の多かった淡路島もそのような志士の潜伏地の一つです。
このような庇護者がいなくて、早い段階で志士たちが幕府に捕らわれていたら、明治維新や日本の近代化が遅れ、のちの歴史は変わってしまったかもしれません。
日柳燕石の功績も改めて考えるべきだと思います。
なお、この後うかがった「こんぴら賢人記念館」には、現在地域のお宅の「一家に一品」のお宝を展示していますので、それを見学に行きました。ここに大西さんがお勤めです。数々の書画骨董が展示されていました。驚いたことに、この碑の原本が展示されていました。藍で染められた原稿用紙に白で書かれたのか、あるいはろう書きの上にのちに藍で染めたのか、一見ではわかりませんが、全体に藍色の原本です。書いたのは、明治大正に活躍した讃岐出身の学者・教育者である黒木欽堂です。顔法を基本に、堂々たる作品です。碑の原本を見ることは少ないですし、このような形式は珍しいと思います。
なお、まんのう町の役場でも黒木欽堂の大作を見せていただきました。
充実した見学会となりました。大西さんに讃岐うどんをごちそうになって帰りました。