3月24日(月)、この日は調査のために
大学からお休みをいただいて、淡路に行ってきました。
東京の早稲田大学教育学部教授の石濱裕美子先生、香川県の田山泰三先生と私の、三名での調査です。
しばらく前に藤澤東畡の研究の中で、現在、日本のチベット学の第一人者である石濱裕美子先生と知り合いました。
この石濱姓は、西夏文字の研究で有名な泊園書院の石濱純太郎の遠い一族で、江戸時代に淡路の石濱一族から分派したそうです。
話しているうちに、この先生のご先祖が実は岡田鴨里だと判明しました。まだ墓参したことがないというので、この日の墓参にお付き合いし、拓本を採ることになったのです。
岡田家のことは、現在では風化して、子孫でもよく解らない点が多く、子孫の石濱さんとしても、ぜひ墓参をして詳しいことを知っている方にお会いしたいということでした。たまたま連休に大阪の寺院でチベット仏教に関する講演会があり、終った後に淡路に足を延ばされ、私と田山先生がご案内役となったわけです。
岡田鴨里の墓碑は昨年の11月に既に学生とともに採拓していますので、この日は私は鴨里の嫡孫で、石濱先生の曾祖父にあたる岡田真の墓碑の採拓をし、石濱先生は岡田鴨里の墓碑の採拓に初めて挑戦されました。岡田真の墓碑拓本はゼミ学生の卒論資料として提供します。
写真は、お墓のある、南あわじ市榎列掃守の榮福寺の住職、岡崎正信さんと、石濱先生が互いの先祖のことについて様々なお話をされているところです。
この会見でわかったのは、一つはこの住職の先々代の岡崎密乗住職が、早稲田大学の地歴科の卒業生で、大隈重信の教えも受けた方だったということです。まさに今、石濱先生が所属されているのが、その学科だということで、あまりの奇遇にお二人とも驚いでいました。また、岡田鴨里の残された文書など資料が子孫の方に渡り、その方は東京に住んでいて、最近その資料をどこかの機関に寄贈したという情報に、石濱さんはたいへん喜ばれました。また岡崎密乗住職はかなりの勉強家で、「岡田鴨里伝」という短文も書かれていたので、コピーを頂きました。また、現・岡崎正信住職も、大変な歴史研究家であるとともに、真言宗寺院の職業
柄、チベット仏教の研究もされていて、石濱先生の著書がたいへん参考になると喜ばれていました。このお二人の出会いは、互いに必要な情報を提供しあうという意味で、素晴らしい出会いだと思います。
このような出会いは、岡田鴨里の霊が導いているとしか思えなくて、私は結果的にそれを仲介するようなことになっています。最近、これに近いことはしばしば私の周りで起きています。
榮福寺から200mほど離れたところに岡田鴨里邸宅跡があり、石碑が建てられていました。三人でここを訪れ、感慨に浸りました。
現在では、岡田鴨里の名を知る人は少ないのですが、頼山陽の高弟で、徳島藩を尊王派にするのに貢献した重要な人物です。徳島藩が幕末に佐幕派だったとしたら、戊辰戦争で攻撃を受けてひどい目に遭い、また明治以降の徳島や淡路出身の人々の活躍はあり得ませんから、今後、再び顕彰すべき人物の一人であると思います。
この後に、徳島空港まで石濱先生をお送りして帰宅しました。