ぱたぱた仙鳩ブログ

徳島から書道文化を発信します。

ソメイヨシノ

2014年03月31日 | インポート

Sakura13月30日(日)、桜の見物にちょっと出かけました。 徳島市佐古の諏訪神社です。

徳島市に諏訪神社がある理由は、鎌倉時代に小笠原氏がこの土地を治めるときに、信濃の諏訪神社を勧請したものだということで、私にもまんざら縁がないわけではありません。ちなみに、小笠原氏は室町時代には細川氏の配下になり、徳島県西部に移され、「三好」の姓をもらって、現在も徳島の有力な一族となっています。

Hana1ソメイヨシノの真っ白な花が満開でした。あまりの美しさにうっとりしました。ふといい香りがするので、下をみたら、沈丁花が咲いていました。目で桜を、鼻で沈丁花の花を楽しみました。

Seisuijiこの神社の隣は、清水寺です。京都の清水寺と何か関係があるのかはわかりませんが、この寺は貫名菘翁の実家の吉井家の菩提寺として有名です。

看板がとても美しかったので撮りました。多分、小坂奇石の書です。最後の「寺」の字の変化は見事の一言です。

Nukinahi境内には、貫名菘翁之碑がありました。この碑の文字も小坂奇石の書でしょう。裏面に名前が書かれていました。

桜の花をバックにあまりに美しい碑の写真となりましたので、投稿しておきます。

いよいよ三月も終わりに近いです。

 


 


岡田家の墓碑

2014年03月25日 | インポート

Okadasin3月24日(月)、この日は調査のために 大学からお休みをいただいて、淡路に行ってきました。

東京の早稲田大学教育学部教授の石濱裕美子先生、香川県の田山泰三先生と私の、三名での調査です。

しばらく前に藤澤東畡の研究の中で、現在、日本のチベット学の第一人者である石濱裕美子先生と知り合いました。

この石濱姓は、西夏文字の研究で有名な泊園書院の石濱純太郎の遠い一族で、江戸時代に淡路の石濱一族から分派したそうです。

話しているうちに、この先生のご先祖が実は岡田鴨里だと判明しました。まだ墓参したことがないというので、この日の墓参にお付き合いし、拓本を採ることになったのです。

岡田家のことは、現在では風化して、子孫でもよく解らない点が多く、子孫の石濱さんとしても、ぜひ墓参をして詳しいことを知っている方にお会いしたいということでした。たまたま連休に大阪の寺院でチベット仏教に関する講演会があり、終った後に淡路に足を延ばされ、私と田山先生がご案内役となったわけです。

岡田鴨里の墓碑は昨年の11月に既に学生とともに採拓していますので、この日は私は鴨里の嫡孫で、石濱先生の曾祖父にあたる岡田真の墓碑の採拓をし、石濱先生は岡田鴨里の墓碑の採拓に初めて挑戦されました。岡田真の墓碑拓本はゼミ学生の卒論資料として提供します。

Youhukuji写真は、お墓のある、南あわじ市榎列掃守の榮福寺の住職、岡崎正信さんと、石濱先生が互いの先祖のことについて様々なお話をされているところです。

この会見でわかったのは、一つはこの住職の先々代の岡崎密乗住職が、早稲田大学の地歴科の卒業生で、大隈重信の教えも受けた方だったということです。まさに今、石濱先生が所属されているのが、その学科だということで、あまりの奇遇にお二人とも驚いでいました。また、岡田鴨里の残された文書など資料が子孫の方に渡り、その方は東京に住んでいて、最近その資料をどこかの機関に寄贈したという情報に、石濱さんはたいへん喜ばれました。また岡崎密乗住職はかなりの勉強家で、「岡田鴨里伝」という短文も書かれていたので、コピーを頂きました。また、現・岡崎正信住職も、大変な歴史研究家であるとともに、真言宗寺院の職業Okadaouri柄、チベット仏教の研究もされていて、石濱先生の著書がたいへん参考になると喜ばれていました。このお二人の出会いは、互いに必要な情報を提供しあうという意味で、素晴らしい出会いだと思います。

このような出会いは、岡田鴨里の霊が導いているとしか思えなくて、私は結果的にそれを仲介するようなことになっています。最近、これに近いことはしばしば私の周りで起きています。

榮福寺から200mほど離れたところに岡田鴨里邸宅跡があり、石碑が建てられていました。三人でここを訪れ、感慨に浸りました。

現在では、岡田鴨里の名を知る人は少ないのですが、頼山陽の高弟で、徳島藩を尊王派にするのに貢献した重要な人物です。徳島藩が幕末に佐幕派だったとしたら、戊辰戦争で攻撃を受けてひどい目に遭い、また明治以降の徳島や淡路出身の人々の活躍はあり得ませんから、今後、再び顕彰すべき人物の一人であると思います。

この後に、徳島空港まで石濱先生をお送りして帰宅しました。


散歩途中の春の花

2014年03月19日 | インポート

Haruhana2_23月19日(水)、朝は健康のために軽い 散歩をしています。春になって散歩と途中にたくさんの花が美しく咲き始めましたので紹介します。

まずは、蜂須賀桜。ソメイヨシノはまだ固いつぼみですが、早咲きのピンクの桜が今満開です。徳島では蜂須賀桜と呼んでいますが、正確な名前は知りません。ネットで調べてみると、 沖縄系のカンヒザクラとヤマザクラの一代自然交配雑種で、徳島城内にあったものだということです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9

Haruhana2_1近くで見るとまた美しいです。花びら一枚一枚に小さな赤い色が入っていて、ガクも赤いので、全体的にピンク色に見えます。茶色の葉の芽も少し出ています。

とても清楚で、私は真っ白なソメイヨシノよりも好きです。

Haruhana3この他、モクレンも咲く直前になってきています。これは白いモクレンの蕾ですが、近くには紫のモクレンもあり、こちらはまだまだ花の姿が全然見えません。同じモクレンでも、種類によって微妙に開花時期が異なります。

Haruhana4とても良い香りを漂わせているのは、ヒイラギナンテンの花です。黄色の房で咲いていますが、ちょうどキンモクセイの香りに近く、もしかしたら近い種類なのかもしれません。

低木のとげとげの葉っぱの中に可愛く咲いていました。

春は確実に進行しています。どんなに寒い冬でも、春が来ると花は同じように美しく咲いています。そのたびに植物の着実な力を感じます。


卒業式終了

2014年03月19日 | インポート

3月16日(日)、大学の卒業式、大学院の修了式が終わり、今年も一区切りがつき、ほっとしています。

卒業生諸君もみな元気で巣立ち、参列された保護者の皆様とも声を交わして、うれしい気持ちでいっぱいです。

17日は振替休日だったので、本当に久しぶりにゆっくり休みましたが、18日からはまた、新年度にむけての仕事が山のようにやってきました。また頑張ります。


喜根井家の墓石採拓

2014年03月13日 | インポート

Kinei13月12日(水)午後、徳島市寺町般若院の墓石の拓本採取に 行きました。

昨年10月のビジネスチャレンジメッセで知り合った、喜根井さんのご先祖のお墓です。

徳島藩の幕末の武士である喜根井家には、喜根井為蔵(1782~1849)という書道の先生が存在していました。この方の来歴は現在不明となっていますが、墓石に詳しいことが彫られていましたので、拓本にとって中身を読むことを依頼されたのです。

Kinei2 墓石は、苔がびっしり生えていましたので、喜根井さんと一緒にきれいに苔をブラシで落とし、紙を貼り付けます。その後に刷毛で叩いて紙を石の凹みに打ち込みます。右の写真は喜根井さんが打ち込み作業をされているところです。

次に拓本用の墨をタンポで打って入れました。よく解らなKinei4かった文字が一気に浮き出してきました。この文章は、江戸末期の徳島藩の儒学者であった岡本晤室(1808~81)によって撰書されています。

内容を読んでみて様々なことがわかって、喜根井さんも感激されていました。

為蔵さんはかなり優秀で人気のある書道の指導者で、教え子は2000人以上いたということです。

また妻子が相次いで早世され、次に来た妻子もまた早世され、結局は甥が後を継いだこともわかりました。墓の表面の5名の戒名は、為蔵さんと2人の奥様・2人のお子様の戒名です。

このお宅の墓石は、この為蔵さん以降の方たちは、何らかの事情で伊賀町に移されました。もう一か所のお墓も見にいきましたが、こちらは名前と生没年のみが彫られていましたので、拓本は採りませんでした。

墓石に長文が彫られている場合は、それを読むとその一族の歴史がはっきりとわかってきます。これを墓石に彫った人々は、この歴史を後世の子孫に読んでほしいからこそ、当時相当のお金をつぎ込んで彫らせているのです。このように内容を調べることは、このような人々の思いを受け止めることにほかなりません。

その際に拓本技術は大きな力を発揮します。今後は、文章の内容を現代語訳し、拓本は掛け軸に表具して喜根井さんに提供する予定です。為蔵さんは徳島の書道文化にとっても重要な人物ですので、いずれは論文にして紹介したいと考えています。