憧憬、大艦巨砲主義w

盆栽RF900R 営農機セロー250 奥様号レブル250

信じるもの。

2007-02-02 23:31:31 | バイク四方山
 

無宗教かつ新約聖書シンパのオレだが、「かくありたい」と希うものは、ある。

自分の信じるものや、真摯に取り組むものや、愛するものをバカにされたり、よく理解していない者が安易にソレを語ることを、あなたは許せるだろうか。
少なくとも、オレは許さない。

ま、社会生活的に年中そんなヤツを物理的に膺懲していたら、マトモな生活は成り立たないので、無視するか、相手を軽蔑するだろう。そして、状況がソレを許したり、問題がおきないと仮定するなら、相手を叩きのめすと思う。

自分に関係するもののソレを尊重し、自分のソレを人に強要しないのが「自立」ということで「責任」と補完関係にあるものだと断言する。


そして、バイクの生活ではソレと同義のものの一つとして「スピード」があると思う。
コレは、全く個人的で、任意で、自由なものだ。
自分自身がソレを任意にコントロールすることは、バイクの生活において誰にも阻害されないはずだし、そうあるべきだと思う。

そりゃ、コンペティションもあろうが、それは「数値テスト」や「資格試験」ごときもので、ソレにしたって、参加は、全くの任意だ。

つまり。
相対する彼我の疾い遅いを語る者は、それが相手にとって「信じるもの」であることを認識した上で語るべきだ。

そう、ソレは、最大限の配慮をもって尊重されなければならないコトだ。

それは、同時に彼の生命もを糸操する領域であることを、決して忘れては、いけない。
自分自身にとって、そうであるように。
アクセルを閉じよういう意識を持ってアクセルを開けることは、バイク以外の全てをも投げ打って、死を受け入れることだ。
ソレが擬似的な果敢であることは、大概のバイク乗りは理解していることと思いたい。


例外。
コレが生死の懸かった領域であり、その経験を共有した共謀共同正犯同士の共通認識においては、同一の意識を持つ者としての前提が存在するように思う。
そして、その者は、双方の信じるものの枠にとらわれず、コレを語ることが許されている、と、固く信じたい。
コメント (2)
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ウッカリス。

2007-02-02 01:53:39 | ロケットスリー

poita号、トライバル作業、一旦、完成!

リア周りのデザインは、シートで隠れたりするので、少し、いじってみたがどうだろう?
やっぱ、へんてこ。
すみません。イジって見たなんて、大嘘です。

なぜかというと。

自分さえダマせない程、曲がってたから。

ヤリ=(T△T)=ナオシ

コメント (4)
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