最近、わからん言葉が、あまりに多い。
告白するが、「『ツンデレ』ってナンだ?」って、つい先日まで思っていたのだが、誰に聞くわけでもなく。
なぜかというと、こーゆーのを、家人に尋ねるのって、いかにも、おやじっぽくって黙っていた。
たぶん、家内はかくかくしかじか、勝ち誇ったようにオレに講釈たれるに決まってる。
そんな陵辱には耐えられない(笑)。
ちなみに、我が社のうんこ支店長も「『のだめ』って何か、キミ、知ってるの?」って、朝礼かなんかで、誰かに話題を振ってた。
200人の職員の前で恥話のおかずにされる人間は、たまったものではない。
あほう、め。
じゃぁ、おまえは「キンタマウィルス」って何のことか知ってるか?
こんなのは、ただの「話題」に過ぎないのだ。
それを一例の引き合いに出すがごとく、「見聞をひろめなさい」などと説教たれるなんて、自らの恥部をヒタイに移植するが如き発言だ。
そう、おやじどもにはソレが「みっともない発言」だということがわからない。
なぜか。
彼の話を聞いている人々がバカに見えているのだ。
そして、それは、感性が麻痺した上での誤謬に他ならない。オレ達はあいつの話が聞きたくて集まって朝礼に参加しているのではない。
あくまで、職制上、業務として労働の対価の一部だから参加しているし、彼の話を聞いているのだ。
あのあほうには、ソレっぽっちのことが、わからない。
実に矮小で卑しい存在だ。
そんな感性の人間になってしまう日が、オレにも、来てしまうのだろうか。
だから、いつも思うのだ。
1ON1では、ヒトの持つ全ての価値は相対化されるのだ。
アイツとサシで、社会的背景がその場で、なければ、オレは面白がって彼を物理的にイジめるのはたやすいことなのだ。
また、自分も若けぇモンとサシでいる時、お互いの相対的なポジションを探られる存在であることを意識していなければならないと思う。
自分が自分らしくいるために。
他人が他人らしくオレとともにあるために。
おやじの膿は溜めないように。
オレには、やっぱり、バイクが必要だ。