今朝は太陽がお目見え、急いで洗濯、外へ干す…が、もう曇り。
楽器を独学でやっていた大昔、「楽譜は必ず暗譜するように」という記述を読んでへこんだ、暗譜は大の苦手。
それはその著者の考えだから読まなかったことにしようと気を取り直した(フフ)
フルートメーカーが出している季刊誌に「暗譜ってなに?」と題した印象的な随筆が掲載されていたので、最後の方だけ抜粋します。
著者は大嶋義実氏
あまり意識されることは少ないのかもしれないが、楽譜は作曲家の欲望そのものだ。作曲者自身も手にすることができなかった音楽への欲望が、記号としてそこには定着する。だから楽譜を演奏することは、奏者が作曲家の欲望に等しく重なり合おうとすることだ。すなわち、自身の内側に欠落している音楽を愛し、それを求めてやまない存在として演奏家はある。同じように作曲家も、自身に欠落した音楽をもとめて楽譜を書く。「どこかにわたしの探す音がある」と信じないことには五線に音符をしたためることなどできはしない。このことは、奏でられるべき音楽が、他者として外部に存在していることを意味している。作曲家にとっても演奏家にとっても事情はおなじだ。だからこそ音楽にたずさわる者たちはみな、他者である音楽と一体化したいと切望している。
その望みは、音楽自身から「あなたとひとつになりたい」という声を聞くまでは癒されることのない渇きでもある。ひとは、狂おしいまでに自身の欲する存在から欲されることを夢見る。わたしたち音楽家は音楽から欲されることを渇望している。「自分を必要として欲しい」と音楽にもとめている。ならば、なすべきことはひとつしかない。音楽に礼節をつくすことだ。それゆえに、音楽家は音楽を前に居住まいを正す。いわば暗譜は音楽という他者と真剣なまなざしで向かい合うための、内なる《かまえ》ともいうべきものだ。
浅はかな虚栄心から始まったのかもしれない。でも聡明なクララ(クララ・シューマン)のことだ、音楽からの承認をもとめる己がこころの渇きを、やがて自覚したはずだ。「とぶ」ことに怖れを抱きながらも彼女が暗譜を続けた理由がここにある。
同じ理由で、つまり音楽に愛されたいという切なる願いから、リヒテルは目の前に楽譜を置いた。共通するのは音楽に対する畏れと謙虚な態度だ。
ふたりの選択は、どちらもが、楽譜の向こう側に生きる音楽にさしだす己が「誠(まこと)」を表したものではなかったか。
どうやら、楽譜がそこにあるかどうかは問題の本質ではなかったようだ。どのような作法であれ、楽譜という音楽への扉はこころからの敬意をもって開かれなければならない。そのときこそ音楽は惜しみなくその姿をわたしたちのまえに現してくれるにちがいない。
愛するものには愛されたいがゆえに礼節を尽くす、そして畏れと謙虚さ…音楽に。
となれば、暗譜は大した問題ではない、この解釈に賛成(フフ)
今朝の一枚はオシロイバナのつぼみ。