プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

古賀英彦

2014-01-21 22:13:37 | 日記
フォーム・・・オーバースロー 球種・・・速球、カーブ、シュート、アメリカ仕込みのチェンジアップ



古賀は熊本工から近畿大へすすみ、三十七年に巨人へ入団した。三シーズン在籍した選手である。最初はオーバースローの速球投手だったが、入団してすぐ首脳部にアンダースローへの改造を命じられた。中継ぎ、救援用に小まわりのきくアンダースロー投手が当時の巨人では必要とされていたからだ。
だが、この無茶な改造がもとで古賀は肩を痛めた。外野手に転向した。一時は宮本敏雄、国松彰、高林恒夫らと競い合って、あと一歩でポジションを手中にするところだった。ところでが新入団した柴田勲がシーズン途中から外野手に転向して、センターへ定着した。古賀はチャンスをうしない、関根潤三、末次民夫らの入団のあおりをうけて、三十九年かぎりで自由契約になったのである。
その後、古賀はアメリカへわたった。野球にまだ自信と未練をもっていた。本場で再起をはかろうとしたのだ。東京ドラゴンズの先駆者といってよい勇敢な夢の多い青年だった。S・ジャイアンツの極東担当スカウトであるキャピー原田に身柄をあずけた。イリノイ州サバナに本拠をおくジャイアンツの1A級ファームへ入団することになった。
古賀はここで、本格派のピッチャーとして再出発した。一年目は八勝七敗。シカゴ・カブスの3A級のファームと契約することができた。だが、その年交通事故で首の神経を痛め、一年を棒にふる不運に見舞われた。渡米三年目、古賀はシカゴ・カブスの1A級に籍をおき、カリフォルニア・リーグで一年間プレーをした。監督は日本にきていたジム・マーシャルだった。古賀はマーシャルの監督就任最初の試合に登板、相手をシャットアウトして一勝をプレゼントしている。その後3Aへふたたび昇格する予定でいた。そこへジョージ吉永からグローバル・リーグへ加われという勧誘があったのだ。現在の給料の倍額を支払うという口説き文句だった。古賀は参加の決心をし、三日まえ、デイトナ・ビーチへ着いた。ひとりトレーニングをつんで一行を待っていたのだ。戦力としての古賀は森には未知数である。だが、アメリカの野球界で三年もメシを食った経験は貴重だ。チームにとって得がたい人材であることはたしかだった。
「古賀さんか。よろしくたのみます。全然勝手がわからないので」「大丈夫。なんとかなりますよ。きょうはゆっくり休養して、あしたから猛練習しましょう。相手は3A級ですが、日本チームはまとまりがよいから、けっこう対抗していけると思う。

日本を出て三年間、古賀は一度も帰国していないという。生きた英語をしゃべる人に特有の巻き舌で彼は日本語を話した。
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室井勝

2014-01-21 21:35:52 | 日記
フォーム・・・記載なし 球種・・・速球、カーブ

室井は切れのよい速球とするどいカーブを制球力よく投げわける。正面から相手を圧倒する威力はないが、大量点をとられずに試合をひっぱってゆく技術のあるピッチャーである。


大洋ホエールズ出身の室井勝は、自由契約になった選手ではなかった。自分から球団へ辞表を出し、ホエールズのキャンプから退散してテストをうけにきたのである。「アメリカで野球をやるというのが気にいったス。大洋にいても二軍でくすぶっているだけでは仕方ないスからねえ」室井は中学しか出ていない。草野球程度の球歴から、二十歳すぎて大洋のテストをうけて入団した。いま二十二歳である。グローバル・リーグの前途をかならずしも楽観できないのは承知のうえだという。ともかくアメリカへわたりたい。チームがもし成り立たなくなれば、向こうで大リーグのファームへ入って野球をやる覚悟らしい。雑草のように生きてきて、なにをやっても生きていけるという自信を頬骨にみなぎらせていた。室井は向こう意気をむきだしにして、ピッチングをつづけていた。速さはまずまず、制球力はじゅうぶんである。だが、打者の手もとでもう一つ速球に伸びがほしい。「きたえれば球に伸びが出るだろう。いけるんじゃないか」森と矢ノ浦はうなずきあった。室井はそれを横目でみて、さらに生き生きとした球をほうるようになった。
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上林成行

2014-01-21 21:07:04 | 日記
1972年 (クラレ岡山時代)

上林がぐんと力をつけている。松浦がワザなら上林は速球主体の力のピッチング。制球に一まつの不安があるが「ストライクさえ投げれば、まず打たれない」と、吉田監督がいうように、新日鉄戦で2安打、1四球の完封勝ちで自信をつけた。
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山田裕

2014-01-21 20:41:05 | 日記
フォーム・・・右投げスリークォーター 球種・・・カーブ、シュート

1969年 グローバルリーグにて

山田はスリークォーターから速球、カーブ、シュートを投げ分ける本格派のピッチャーだった。突っ立ち気味の投球フォームなので、ストレートにやや伸びは欠く。それでも球は速い。ベネズエラの強打線を向こうにまわしても、中盤までは無失点でふんばれるはずの男だった。なんとかクインタナから先取点をとって山田を擁護し、後半は下手投げの千葉久をくりだして逃げ込む作戦である。
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