プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

後藤修

2019-11-24 19:57:10 | 日記
1964年

昨年暮れ西鉄ライオンズから自由契約をいい渡され、去就が注目されていた後藤修投手(30)は、このほど阪急との話し合いがまとまり、十五日から西宮球場で行われるトレーニングにテスト生として参加することになった。

昨年十一月三十日、球団から自由契約の宣告をうけた後藤は「中日と広島に紹介してくれ」と申し出たが、中日、広島ともに今シーズンは大物トレードを希望していたので、後藤クラスの投手では交渉がまとまらなかった。たまたま阪急は牧田を中日に出し、左投手は梶本ひとり。さいわい西本監督と若林コーチは毎日オリオンズ時代同じカマのメシを食った間柄で話はとんとん拍子に進んだ。後藤投手が阪急のテストに合格すれば、これで十三年間に八球団を渡り歩くことになる。

阪急・西本監督の話「若林さんから話があったので、さっそく検討してみたが、いちおう十五日からの練習に参加してもらうことにしている。採用するかどうかは練習を見なければわからないが、コンディションのぐあいもあろうから、ある程度の期間を与えてみたい。ワンポイント用とか、人情的なものでテストするのではなく、あくまでピッチングが通用するかどうかだ。ことしの成績を見ると投球イニングのわりに四球が多いが、ボクの見る限りではスピードも死んでいないし、ナックルのコントロールもいい。練習でじっくり見きわめたいと思っている」

後藤投手の話「ボクが左の本格派でありながら大成できなかったのはどんな人の意見でもすぐにピッチングに取り入れてみたからです。その結果、いつまでたっても自分のフォームをつかめなかった。野球には向いていないから他の職業に変えたらといってくれる人もいますが、ボクはいつまでも野球をやりたい。遠投やスピードではまだまだ自信はあります。野球はボクの天職と思っています」
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中前健児

2019-11-24 15:49:31 | 日記
1964年

大毎オリオンズは六日午後一時から大阪・堂島の大映関西支社で中前健児(18)=投手、県立尼崎高定時制ー日本熱学、身長1㍍72、体重64㌔、左投げ左打ち=の入団を発表した。球団からは青木、倉橋(関西駐在)両スカウトが立ち会った。中前投手はノンプロチーム、日本熱学の投手として活躍するかたわら、夜は県立尼崎高定時制に通い、三年間、同校野球部の主柱として活躍していた。左からのストレートのよさが身上。昨夏の高校野球兵庫県予選では準々決勝まで進んだが、県代表になった市立西宮に惜敗した。県尼崎では投手で4番を打ち、40勝3敗、打率3割8分、日本熱学では3勝1敗で、強チーム住友金属を破るなどかなりの実績をあげた。なお同投手は九日大阪をたち、十日から大毎の練習に参加する。

大毎・青木スカウトの話 「中前君は昼は会社、夜は高校に通うという変わりダネだが、左投手としてよい素質をもっている。打撃もいいが、ウチは投手としてやってもらうつもりだ。これで左投手の新人が、竜、江口、中前と三人そろったので新人補強の目標は達したと思う」

中前投手の話「自分の力をためしてみたい。武器はストレートとコントロールです。バッティングも好きなので魅力だが、大毎では投手でがんばりたい」
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堺崇展

2019-11-24 14:05:49 | 日記

1964年

東映の藤村打撃コーチが「あんな大きな体格をしおって、四年間どうしとったんや。なんとか一人前にせなアカン」と伊東キャンプで目をつけている選手。それは入団五年目をむかえた1㍍81、57㌔の内野手、堺崇展だ。一日まで東映を指導したドジャースのリーザーコーチは根性を強調して帰った。いまの堺は、なにかというとニヤニヤしている。安藤順、張本などから「こら、笑うな、しゃんとやれ」としかられる。本人が、つい無意識で顔にだすクセも、周囲からみるとタルんでいるようにみえるらしい。成長を願う先輩のきついことばのなかで、堺は日一日と進歩している。「ほら、スタンスがもとどおりになっとる。ちょっと目をはなすと、すぐ悪いくせをだしおる。そうだ、そのいまの調子。忘れるなヨ」バックネット前のティーバッティングの練習で藤村コーチは、堺につきっきりだ。手をとり、足をとるように教える藤村コーチ。すなおにうなずき、スイングをくりかえす堺。この師弟風景は、いまや伊東キャンプで欠くことのできないものになっている。「藤村さんから、打つときに左足の踏みだしを注意されました。これまでボクは、スタンスを広くして、ほとんどそのままで打っていたんです。いまはせまくして前に体重を移すことと、そのときのバットとボールのミートポイントをつかむのに懸命です」堺は、このひるの練習を終えると、こんどはよるの練習をはじめる。宿舎の「伊東スタジアムホテル」の玄関前の広場は、ときおり聞こえる自動車のエンジンの音以外はシンと静まりかえっている。夕食後、堺は同僚の是久、白と三人、バットを片手にこの静かな広場にでる。くらやみから「ピュッピュッ」と聞こえるから振りの音。「ボクは入団してから素振りの練習などしたことがなkったんです。藤村さんにいわれてはじめたことですが、いまでは、なぜ前からやらなかったんだろうと後悔しているくらいです。ほら、マメもこんなにできたのは、はじめてですヨ」堺の手は、左といわず、右といわずマメだらけ。ユビの関節すべてにできているようだ。堺はことし、旧名の一也を崇展(むねのり)に改めた。「べつに意味はない」というが、心機一転を期す九州男児の意気込みのあらわれではなかろうか。大分県佐伯市の「大入島中学」時代は水泳をやっていたという。島は小舟で五分くらいのところだが、よく同級生と泳いで渡ったそうだ。このころの堺は万能選手だった。NHKの全国中学校放送陸上では三段とびで12㍍いくらかをとんで県下第二位。そして平泳ぎのオリンピック候補選手松本健次郎選手の出身校、水泳の名門、佐伯鶴城高校へ。ここで水泳部の勧誘を断って野球部入り。三塁手、四番打者として活躍した。「あのころの方が、ボールを前で当てていただけですが、よく打てていたようです。考えてみれば、もう東映にはいって五年目でしょう。一軍のベンチにはいれたのは入団した年に二度だけ。公式戦にはいちども出場していないんですからネ。今シーズンはなんとかしなくちゃあ」練習のときは、やかましくいわれる笑顔も、このときだけは文句のないものだった。
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原田秀行

2019-11-24 13:47:08 | 日記
1964年

南海の原田投手(柳井商)は新人のなかで一番の変わり種。一家そろって新興宗教の熱心な信者。高校時代、肩が痛むと学校のマウンドで正座、神に祈ったところぴたりとなおったという。五日のピッチング練習でも各投手が60球ぐらいしか投げないのに原田の投げた球は300球。「神さまからもういいというお告げがあるまで投げる」といった調子。投げ終わった原田が顔をしかめて右肩をもんでいるのを見た柚木コーチが「肩が痛かったら医者に診てもらえ、神さんは肩をなおしてくれないぞ」というと、同投手は「ぼくは神を信じています」
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平野克明

2019-11-24 13:23:01 | 日記
1963年

プロ野球大洋ホエールズから入団を勧誘されていた全電化のエース平野克明投手(21)の大洋入りが本決まりとなり、今月中旬ごろ契約する運びとなった。県内からのプロ野球選手には過去に高頭(阪急)馬場(巨人)鈴木(同)杉本(同)それに大毎の長谷川らがいるが、全電化からのプロ入りはこれが初めてである。平野投手は中頚柿崎町柿崎の出身で三十五年県立柏崎工業高校卒業後ただちに電化青海工場に入社、全電化野球部の投手として昨年あたりからめきめき腕を上げている。ことしの都市対抗ではエースとして県予選でノーヒットノーランを演じたほか、六試合連続無失点の記録を立て、富山市で開かれた第二次予選で大洋湊谷スカウトの目にとまった。その後同球団保井スカウト部長、入谷ピッチングコーチらが電化を再三訪れて勧誘、十一月二十六日と二十九日の両日森代表が東京で電化野球部長の水野副社長らと会って正式に決まった。平野投手は身長1㍍75、体重66㌔、右投げ右打ちの本格派投手で外角の速球とシュートが武器。

全電化野村監督の話 うちとしては惜しい選手を失うので痛いが、来年の補強は着々と進んでいる。平野君には全電化出身の選手として力いっぱいの活躍をしてほしいと期待している。
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