1997年
真木さんは東筑紫学園高時代の1993年、春の選抜大会に主戦として出場。その後も法政大学で投手として活躍した。速球とスライダーが武器の左腕で、同校からは初めてのプロ野球選手となる。
1998年
145㌔を記録した球速は、130㌔台後半に落ちていた。佐々木監督は「肩で息をしてアップアップだったからと、5回降板の理由を説明した。ところが、「疲れてはいなかった。もっと投げたかった」とドラフト1位の新人左腕は、強気の姿勢を崩さない。速球でグイグイ押す一回の投球内容は、言葉と同様強気そのものだった。球威が衰え始めると、落差のあるカーブを有効に使ってボール球を振らせる投球に切り替え、5回を1失点で切り抜けた。
立ち上がりから「腕がよく振れていた」。だから直球が打者の手元でグッと伸びた。法大時代の真木と、慶大の主力打者として対戦した西武・高木大が「あんなに速かったっけ」と驚いたほどだ。軸の直球が伸びれば、変化球も生きる。西武の打者は直球で追い込まれ、スライダーやSFFをひっかけ凡打を繰り返した。27アウト中17アウトが内野ゴロという数字が投球内容を物語る。
真木さんは東筑紫学園高時代の1993年、春の選抜大会に主戦として出場。その後も法政大学で投手として活躍した。速球とスライダーが武器の左腕で、同校からは初めてのプロ野球選手となる。
1998年
145㌔を記録した球速は、130㌔台後半に落ちていた。佐々木監督は「肩で息をしてアップアップだったからと、5回降板の理由を説明した。ところが、「疲れてはいなかった。もっと投げたかった」とドラフト1位の新人左腕は、強気の姿勢を崩さない。速球でグイグイ押す一回の投球内容は、言葉と同様強気そのものだった。球威が衰え始めると、落差のあるカーブを有効に使ってボール球を振らせる投球に切り替え、5回を1失点で切り抜けた。
立ち上がりから「腕がよく振れていた」。だから直球が打者の手元でグッと伸びた。法大時代の真木と、慶大の主力打者として対戦した西武・高木大が「あんなに速かったっけ」と驚いたほどだ。軸の直球が伸びれば、変化球も生きる。西武の打者は直球で追い込まれ、スライダーやSFFをひっかけ凡打を繰り返した。27アウト中17アウトが内野ゴロという数字が投球内容を物語る。