プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

黒田勉

2016-10-22 21:31:50 | 日記
1962年

「これでやっと四つになった」黒田(勉)は試合が終わりそうになると、こんな計算をしていた。四つになったとは南海からの勝ち星だ。三十五年に2勝、昨年は1勝だった。「入団してから四年間一度も勝てなかったのは南海や。出ては負け出ては負けていたんや。それがどんなかげんか、一昨年からぼくにツキがまわってきたんやね。きょうもこうして初白星を南海さんからかせがせてもろうたし・・・」黒田(勉)は帽子をつかんだりユニホームのソデを自分にひっぱってみたり、まるで子供のようにはしゃいでいた。「ストレートはたった六つしか投げなかった。それもはじめの方にね。あとは外角にスライダー、内角にフォークボール。左右にパッパッと散らして・・・。考えながら投げたんや」これが南海を八回一死まで四安打に押えた黒田(勉)のピッチングだ。鶴見工(神奈川県)時代四百㍍で連続二年全国大会に出場した陸上選手。オリンピック候補にのぼったこともある。高校を出ると地元の日本鋼管に入社。これが近鉄にはいる前の黒田(勉)の経歴。近鉄には七年前百万円の契約金で入団している。「去年までのぼくははっきりいって他の投手の引きたて役だった。昨年は徳久の・・・。それじゃあまり自分がかわいそうや。だからことしはどうしても一本立ちしたかった」ことしダメだったら思い切って商売がえしようと思ったそうだ。「でもこれで自信がついたから商売がえはやめや。やっぱり野球をやった方がいい」自分のことをしゃべり終わるとこんどは南海の話になった。「広瀬、野村、それにピートはたしかにこわい。でもことしの南海は四番以下にまるで迫力がないんだ。投げていても下位打線はでくの坊ばかりやものね。去年の南海なら下の方からバチンバチンと打ち上げてきたんや。杉山がいなくなっただけでも楽や。ことしのマウンドの上から南海を見てみると、杉山のしめていたウエートがこんなに大きかったのかとびっくりするものね」黒田(勉)はことしの南海をカモだといった。

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