プロ野球 OB投手資料ブログ

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菊村徳用

2021-01-23 12:21:19 | 日記

1974年


育英高の左腕菊村徳用投手(18)=178㌢、73㌔=が四日、ロッテと正式契約した。不運にも甲子園の晴れ舞台を踏めなかったため土屋(銚子商)工藤(土浦日大)永川(横浜)定岡(鹿児島実)の高校ビッグ4ほどの知名度はないが、その快速球は早くから超高校級といわれた逸材。あこがれの大投手金田監督の横で、「プロ入りは子供時代からの夢でした」と抱負を語る菊村の顔は上気していた。幻の左腕江夏二世と、うわさされる菊村の前途は洋々だ。

 

菊村が兵庫県下で注目され出したのは、尼崎市の日新中時代。三年のとき、兵庫県中学校大会阪神大会(神戸新聞社後援)で強敵報徳をなんと20奪三振の快投をみせたのだ。県大会出場ことはばまれたが、この快挙でが然日新中に菊村ありと、評判になった。中学生では珍しく大阪、兵庫などの野球名門校から激しいさそいがかかったほど。育英進学は当時の監督、日下隆氏の「君の速球なら、必ず甲子園に出れる!」の熱心な勧誘が実ってきたものだ。甲子園へ・・。だが、菊村の青春の夢をかけた高校生活は不運の一語に尽きた。入学早々の五月、春の兵庫県大会に早くもエースで登場した菊村。打線の援護がなく、初戦の市神港に0-2で敗れたが、その豪快なピッチングは未完の大器と、関係者の話題をさらった。一年夏の全国高校野球選手権兵庫県大会ではベスト16入り。同秋の県大会では四強で争う決勝リーグに進出。「さあ、今年が勝負だ!」一歩一歩近づく甲子園に、菊村がなお一層の闘志をかきたてた二年の春、予想もしなかった事件が待っていた。野球部員の不祥事に科せられた一年間の「対外試合禁止」処分。これは名門育英にとっても、エース菊村にとっても痛恨の出来事。当時の育英は県下でも屈指の大型チームといわれたが、夏の大会では不本意にも幻の優勝候補のまま消えた。それからは教えてくれるコーチもいなく「単調な練習だけで過ごした」つらく、長かった一年。菊村はほぼ手中にしていた二年夏、三年夏と、二度までも甲子園を失った。しかし、この試練に耐えた一年間は菊村だけでなく、育英ナインをも精神面で大きく成長させたのだろう。二年の冬休み、全部員がアルバイトに励み、その収益金をすべて社会福祉事業に寄付する善行が話題を呼んだ。菊村には最後のチャンスとなった今年夏の甲子園。だが、一年間のブランクはあまりにも大きかった。強敵洲本実を相手にした兵庫大会3回戦。菊村は相変わらずの快速球で力投したが、どたん場の九回であきらめきれないサヨナラ負け。「あのスピードは、文句なく一番だ」「いや、江夏の阪神入団時よりも速いさ」プロ野球のスカウト連がささやきあっているとき、菊村が流れ落ちる悔し涙をふこうともせず、ベンチに一人立ちつくしていた姿が印象的だった。その左腕からの速球が、高校球界№1といわれながら、一度も踏むことがなかったヒノキ舞台。夏休み。ライバル土屋、工藤、定岡が甲子園で脚光を浴びている間、菊村は道路工事のアルバイトに励んでいた。炎天下にツルハシを持って穴を掘る仕事。そこにはもう不運な高校生活を悔いる気持ちは消えていた。「足腰を鍛えるんです。将来の野球生活に備えて…」こう話す菊村の表情は、底抜けに明るかった。先のドラフト会議では、まず予想通りのロッテ一位指名。「希望球団はセ・リーグ」といっていた菊村も、尊敬する金田監督の直接勧誘には「ロッテでがんばります」ときっぱり。契約金でもめるビッグ4とは対照的に、「お金は両親にこれまでのお礼としてあげます。僕は裸一貫でやり抜くんです」その心意気もカネやん好みだ。過去、育英からプロ入りした左腕投手は鈴木(近鉄)竹田(中日)と成功している。「甲子園組には絶対負けません」幻の左腕は、来春、全国ファンの前にそのベールを脱ぐ。


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